半村 良 下町探偵局 PART㈵ 目 次  第一話 お手伝い志願  第二話 秋の鶯《うぐいす》  第三話 裏口の客  第四話 街の祈り  第一話 お手伝い志願     1  下町誠一《しもまちせいいち》。四十七歳。  下町は本来「シモマチ」と読み、事実五年程前まではたしかに「シモマチさん」と呼ばれていた。その頃は青山《あおやま》に住んでいて、勤め先は麻布《あざぶ》にあった。  しかし今では誰《だれ》も「シモマチさん」とは呼んでくれない。「シタマチさん」である。もっとも、住んでいる場所が、両国《りようごく》の三丁目だから、仕方がないと言えるかも知れない。だが、それ以上に下町を「シタマチ」にしたのは、オフィスにかかげた看板《かんばん》のせいなのだ。  下町|探偵局《たんていきよく》。  両国駅のすぐ近くでそんな看板をあげれば、誰だってつい「シタマチ」と読んでしまう。かと言って、下町誠一なる人物が独立独歩、自分の探偵社を構えて看板をかかげるからには、下町探偵局と言う名称を用いても、不都合なことは何もない。結局、名前をどう読むかは他人さまがきめることで、住む場所によっては本人の意に反する結果にもなるが、それも運不運、めぐり合わせという奴《やつ》なのだろう。  まさに運不運。上から読んでも運不運、下から読んでも運不運だ。これが山本山などという商店の名なら別にどうということはないが、運不運となると油断がならない。まん中から読むと、上へ向かっても下へ向かっても不運、不運である。  そして下町探偵局の職員たちは、揃《そろ》いも揃ってまん中から読む奴にとりつかれていた。  そもそもが、探偵などというものは、守るべき資産なり地位なりがある、恵まれた人々に役立つものであって、その日ぐらしの貧乏人が探偵を雇うなんて、余り聞いた話ではない。従って、興信所のたぐいは大企業の本社がひしめく都心のオフィス街に近くなければ商売になりにくいし、探偵事務所は大きな邸宅《ていたく》がたくさんある山の手方面にかたよるのが当然のなりゆきである。  それが、両国三丁目。  何も両国|界隈《かいわい》が貧乏人の巣だというわけではない。毎年発表される高額所得者名簿をもとに、それに載った人々の所在を小さな黒点であらわした東京の地図が売られているが、その地図を見れば下町方面にだって黒い点がびっしりと並んでいる。  だがそれでも、下町にある探偵事務所というのは珍しい存在であることも事実だ。これはやはり気風の問題なのだろうか。高額所得者をあらわす地図の黒点が、東京の富の分布状態を示しているとしても、下町方面に探偵事務所が少ないということは、おのずからその富の内容をあらわしていそうな気がする。  下町の黒点は、自分自身の努力で営々と築きあげた富であろう。だからそれにまつわるトラブルは少なく、探偵を雇う必要も余りないのではないか。ところが、山の手方面の黒点はどこか地に足がついておらず、他力本願で要領よく手に入れた富が多いのではなかろうか。だから探偵を雇う必要も多い。  まあそんなことはどうでもいいが、とにかく下町探偵局などと言うと、競争相手の少ない穴場を狙《ねら》う俊敏さよりは、どことなく激戦地からはじき出されたひよわさを先に感じてしまう。  そしてもし、下町誠一という男に会ったとしたら、たいていの人は下町探偵局という看板を見たときの第一印象が正しかったと思うに違《ちが》いない。  生活に疲れた中年男。そんな平凡な表現が、彼の場合にはぴたりと当てはまってしまう。彼がどんな不運に見舞われてそうなったかは判《わか》らなくても、その不運が随分昔に起ったことで、それ以来ずっとツキに見はなされているらしいことは一目で判るのだ。  それでも、下町探偵局という自分のオフィスを持って何人かの人間を使っているのだから、そんなにひどい人生だとも言えなかろう。とにかく彼は下町探偵局の四人の部下たちから、「所長」と呼ばれているのだ。探偵局だから「局長」と呼んでもよさそうなものだが、それでは何となく偉《えら》すぎる感じで本人も嫌《いや》がるし、呼ぶほうも呼び辛いらしい。  そこで「所長」だ。そんな状態だから、下町探偵局へいわくありげな人物が、面体《めんてい》をかくしてひそかにおとずれるというようなことはまずない。仕事のほとんどは都心や山の手方面にある大きな探偵事務所や興信所などからの下請け仕事なのである。  さて、そのオフィスだが、下町探偵局の「局」とは、つけもつけたりという感じである。木造モルタル二階建て。狭い道路……と言うよりは横丁に面した一階は酒屋の倉庫になっていて、いつ行って見ても緑色に塗ったシャッターがおりている。そのとなりはブロック塀になっていて、塀の内側からは一日中、シャーッ・パタン、シャーッ・パタンと機械の動く音が聞こえている。小さな印刷屋なのだ。そして、緑色のシャッターとブロック塀の間に、メートル法をご勘弁《かんべん》願って昔風に言わせてもらうなら、間口一間、奥行き三尺……つまり半|坪《つぼ》ほどのへこみがあって、そこにガラス格子の引き戸が二枚はまっている。上に小さな電球がむき出しについているが、それが門灯のなれの果てだということはすぐに判る。つまり以前はごく普通の住宅だったのだ。その一階の表側を潰《つぶ》して酒屋の倉庫にしてしまったらしい。半坪ほどへこんだ入口の右側の壁には、電気のメーターボックスや、赤いブリキのポストがとりつけてあり、足もとのコンクリートの一部が黒ずんでいて、そこに水道局のマークがついた鉄の蓋《ふた》がはめこんである。  他人の家の玄関の戸というのは、左か右かよく開けるのに迷うもので、ガラリとあけたとたん傘立《かさた》てや下駄箱《げたばこ》が目の前にあらわれてうろたえるものだが、その入口ばかりは左右の戸の開けかたに間違いようがない。右の戸は釘《くぎ》で打ちつけてあって開くわけがないのだ。左の戸は外から見るとたいそう歪んで見え、ガタビシやらねば開きにくいと思いがちだが、これが意外になめらかに開く。あまりガタビシやらねば開かなすぎたので、素人《しろうと》仕事ながら徹底的に直してしまったのだ。  下町風の民家の構造を知りすぎていると、その戸をあけてちょっと意外に思うに違いない。玄関を入ると廊下があって、右っかわに階段がついている筈なのだが、なぜかこの家は階段が裏に向かってついている。入口からまっすぐな廊下があって、一度突き当たりまで行ってから階段で二階へあがるようになっている。便所などはたいてい裏側にあるから、そのほうが使い易かったのかも知れない。  仕舞屋《しもたや》の昔はいざ知らず、今では玄関で履物《はきもの》を脱《ぬ》ぐことはない。これも素人細工《しろうとざいく》らしいやけに頑丈《がんじよう》な二段の階段を踏んで靴のまま上へあがり、ゴトゴトと妙に響く廊下を通って突き当たりまで行って、廻れ右して階段をあがると、その二階が下町探偵局のオフィスなのである。  呼鈴《よびりん》もインターフォンも要《い》りはしない。はじめての客は歪《ゆが》んだ入口の戸を見てたいてい力まかせに引きあけるから、ガラガラピシャンと二階まで大きな音が聞こえるし、廊下や階段も敷物などないから、はだしにでもならない限り二階の人間に気付かれぬわけがない。  とにかく、下町探偵局がその二階へ入るまでに、いろいろな業種のオフィスが入れかわったようだ。その中には成功して出て行ったものもあろうが、ポシャッてしまったほうが多いような感じである。     2  下町探偵局の所長、下町誠一はその同じ屋根の下に住んでいる。  廊下の突き当たりは台所で、もともと仕舞屋《しもたや》だから設備は整っている。ただ汚れているだけだ。ただしゴキブリはまったく見かけない。台所にあるのはお茶がらと煙草《たばこ》の吸《す》い殻《がら》と石鹸《せつけん》ぐらいなものだからだ。いくらゴキブリがたくましくても、食い物のない所には住まないだろう。  下町誠一が住んでいるのは、台所ととなり合わせの六畳間だ。以前は和室だったのだろうが、これがベニヤ板の細工で洋間になっている。下町はマメなところがあって、そこに住むようになってから自分で壁や天井を白く塗《ぬ》り変《か》えてしまった。窓にも安いブルーのカーテンをとりつけ、安物のソファーベッドを持ち込んでいる。それに、温泉旅館の窓際の板の間に置いてあるような、小ぶりのソファーと低く小さなテーブルがひとつずつ。古ぼけた籐《とう》の安楽椅子、そして小さな整理だんす。幅一間の押入れの襖《ふすま》をとっぱらって両びらきのドアにしてあり、中の仕切りもとっぱらって服を何着か吊してある。靴も鞄《かばん》もみなその中に押し込んであり、そのほかに部屋の中にあるものと言ったら、安物の目覚し時計と小さな白黒テレビだけだ。  下町はその部屋でたいてい毎朝十時ごろまで寝ている。なぜ十時かと言うと、それがオフィスの始業時間だからである。その時間になると毎日四人の職員が出勤して来る。男三名女一名。所長の下町をいれて総勢五人の探偵局なのである。  一番乗りはたいてい茂木正子《もぎまさこ》である。幅が三尺そこそこの階段いっぱいにふくれあがった感じで二階へ上って行き、すぐ台所へおりて来て湯を沸《わ》かしはじめる。湯が沸く間、台所に置いた木の丸椅子に大きな尻《しり》をのせ、煙草をふかしながら新聞を読むのが日課になっている。そして、新聞を読みながら、思い出したように、 「所長ォ……十時ですよォ」  と間のびした声で言うのも日課のひとつだ。  前の晩深酒をしていなければ、下町はたいていその頃には目を覚ましている。一人、二人、三人、四人……。ベッドの上で横になったまま、職員が出勤して来る足音を数えているのだが、茂木正子が声をかけるまでは決してベッドからおりようとはしない。横着なのも横着なのだが、自分では贅沢《ぜいたく》を楽しんでいるつもりなのだ。ひとつの企業のトップとして、全社員が出揃うのをたしかめながら寝ているというのは、大変贅沢なことであると思っているのだ。これが千人二千人という規模の会社だったら、とても数え切れまいし、ましてベッドに寝たまま数えることなどできはすまい。のべつ金を食うでかい庭を持った邸宅で、変に学のあるかみさんにゴチャゴチャ言われながら飯《めし》を食いおわると、とっくにお抱え運転手が黒い服か何か着て車を玄関へ廻して待っている。女中が鞄を持ってそこまでついて来てくれると言えば体裁《ていさい》はいいが、要するに早く稼《かせ》いで来いと追い出されるようなものではないか。尻を引っぱたかれるかわりに、いくらか叮嚀《ていねい》に扱われるだけのことだ。  と、まあ、下町はそんな風に考えてみずからを慰めているのだが、 「十時ですよォ」  の声を合図にのっそりと起きあがり、服を着ると、たいていその頃にはお湯が沸いて、肥《ふと》った茂木正子が二階へあがって行く。だから下町は、毎日茂木正子のでかい尻を一番最初に眺めることになる。  そのあとへ行って水道のコックをひねり、歯を磨き顔を洗い、二日に一度くらいはざっと髭《ひげ》をそって、顔を拭《ふ》いたタオルを手に二階のオフィスへあがって行く。 「お早う」  まず下町が朝の挨拶《あいさつ》をする。おかしなことに、さっき台所で声をかけたばかりの茂木正子が一番先に、 「お早うございます」  と答える。ちょっと色黒で長い顔をした北尾貞吉《きたおさだきち》が、 「お早うございます」  と、たいてい二番目に言う。叮嚀《ていねい》だがハキハキしてはいない。岩瀬五郎《いわせごろう》はいつも新聞を読んだまま、顔をあげずに、 「お早うス」  と軽く言う。若い風間健一《かざまけんいち》は、お早う、とも、オス、ともつかぬ声を出しておわりだ。  探偵局だから、四人がそれぞれひと癖ありげ……と言いたいところだが、どれもこれもうらぶれて、疲れ果てたような感じである。  だが、物は考えようだ。一見して相手に警戒心を抱かせるような人物は探偵として不適当であろう。探偵業の最大の要素が尾行であるならば、衆にまじって目立たない人物のほうが優れている。その点、下町探偵局のスタッフ全員、衆にまじって決して目立つことがない。また、人に警戒されるということもまずなかろう。とは言え、それは見せかけだけのことではなく、事実警戒する必要がほとんどない連中である。みな何かしら人生において挫折し、転落し、このもと仕舞屋の二階へ吹き寄せられてしまったような人間たちなのである。     3  岩瀬五郎。暑いさかりでない限り、好んでダブルの背広を着る。やや肥り気味で、ことに下腹部はかなり出っぱっている。丸顔で髪《かみ》を短かめに刈り、きちんと七《しち》・三《さん》に分けている。が、きちんと分けているからと言って、清潔な感じは漂《ただよ》って来ない。一見して何かのブローカーのような感じだが、以前は或る政治家の秘書をしていたらしい。年は三十七歳。  茂木正子は四十二歳。四十二歳と言えば男の厄年《やくどし》だが、彼女は女でも厄年らしく、ろくなことが起らないとぼやいてばかりいる。信用金庫に勤めていたことがあり、経理係兼連絡デスクと言った役まわりだ。器量はとにかく、びっくりするくらい美しい筆跡の持主だ。独身。完全なオールドミスである。  北尾貞吉、五十四歳。もとメリヤス屋のご主人。不運に不運が重なって、今では病妻をかかえて探偵業にしがみついている。  風間健一は二十九歳。下町探偵局一番の若手だが、この若手が一番気力がない。長髪で蒼白い顔をしていて、腹が減りすぎた時のような目の窪《くぼ》みかたをしている。それでいて、食事は猫《ねこ》の飯くらいしか食べない。盛りそばひとつがやっとで、丼《どんぶり》ものなどは半分以上残してしまう。酒を飲むとひどく荒れる癖があるが、酒量は大したことがなく、水割り三杯くらいで目を据《す》えてしまうのだ。それでいて、いつも飲みたがっている。経歴は所長の下町もよく知らないようだ。  二階のオフィスの入口は、何とかそれらしくドアがついている。腰は板で上半分が素通しのガラスだ。「下町探偵局」と黒い文字が入っている。  お定まりの灰色のスチールデスクが四つ。キャスターつきの回転椅子がセットになっている奴だ。二つずつ向き合ってひとかたまりになっている。同じ色のスチール製のキャビネットが二つに本棚。所長の下町のデスクは木製で、大きいがこまかな傷《きず》がいちめんについている。材料は樫《かし》の木だそうだ。勿論椅子《もちろんいす》も同じ樫の木でできているが、クッションがもうよれよれになっている。デスクの上には緑色のデスクマットと、ひどく頑丈《がんじよう》そうな真鍮《しんちゆう》の大きな灰皿。下町のデスクの横に木の衝立《ついたて》が置いてあって、そのかげに応接用のソファーが二つ、小さなテーブルをはさんで向き合っている。電話は二台。壁には自動車会社のカレンダーと緑色の黒板。緑色の黒板と言うのはちとおかしいが、要するに緑色の地板の上に白い線が引いてあり、白墨《はくぼく》で字が書けるのだから、黒板と言うより仕方がない。行動予定表に使われている。 「お早う」  と言い合ったあと、四人は黙々とお茶を飲んでいる。下町は自分のデスクについてぼんやりとその四人の顔を眺めまわしている。次の給料日をどうやってしのごうかと考えているに違いない。  そのとき、下でガラガラッと戸のあく音がした。 「お客さんだわ」  茂木正子が言うと、岩瀬五郎がウフフ……と笑った。 「お客さんか……」  北尾貞吉は笑いもしない。依頼人など来る筈がないのは判り切っているのだ。  ガタガタガタ……。靴にしてはやかましい音が廊下を歩いて来る。下町は聞き耳をたて、すぐ眉《まゆ》をひそめた。茂木正子は早くも下町の表情に関心を示している。  階段をあがって来るのが、髪をひっつめにして浴衣《ゆかた》に下駄《げた》ばきという姿の女であることが判っているのだ。となりの印刷屋の婆《ばあ》さんなのである。 「こんにちわ」  印刷屋の婆さんはガラス戸をあけてそう言った。もうじき七十の筈だが、やけに足腰がしっかりしている。早起きだから十時ではお早うの時間ではない。 「おやまあ皆さんお揃いで」  入口のところに立って言う。 「窓くらいあけなさいよ。少しは風が入るんだから」  茂木正子が黙って立ちあがり、言われた通り表に面したガラス戸をあけた。そのガラス戸と一階の庇《ひさし》の間に、「下町探偵局」という横書きの看板が、でかでかと建物の幅いっぱいにかかげてあるのだ。 「まあどうぞ」  下町が気乗りしない様子で折《お》り畳《たた》み式の椅子を示した。彼のデスクの横に置きっ放しになっている奴だ。 「お茶なんかいいわよ」  婆さんは茂木正子に言い、ひっこひょこと歩いてその椅子に腰をおろした。 「探偵さん、忙しい……」  下町に訊《き》く。 「ごらんの通り閑古鳥《かんこどり》が鳴いてますよ」 「夜になるとこおろぎが鳴くしね。こんな町中《まちなか》の家のどこに、こおろぎのかくねる場所があると言うんだろう」  婆さんはこおろぎを探《さが》すように、部屋の隅のほうを見た。  下町はデスクの抽斗《ひきだし》をあけて扇子をとりだし、婆さんのほうへ押しやった。 「有難う」  その扇子はこのところ婆さん専用のようになっていて、来るたび下町が抽斗から出して貸してやるのだ。  婆さんは扇子をひろげて胸《むな》もとに風を送りながら言う。 「近頃の会社はどこもクーラーをいれてるってね。クーラーのない会社なんてほかにあるのかしら」  下町探偵局は一応有限会社にしてある。 「そのうち儲《もう》かったらいれますよ」  婆さんは扇子の手をとめ、机ごしに下町を打つようにした。 「あたしゃクーラーなんて大《だい》っ嫌《きら》い」 「へえ……クーラーが嫌いなんですか」  北尾貞吉が言った。婆さんは声のほうをふり返る。 「あんなの体によくないわよ。夏は暑くて当たり前。それをなによ……今の人は冬になればムンムンするほど部屋をあっためちゃって、夏んんなると冷めたぁくしちゃって。神経痛が出るわ、あんなの」 「やっぱりこのほうがいいですか」  下町は苦笑を泛《うか》べて言う。午前十時をまわると、部屋の中はムッとする暑さになっている。  婆さんは下町のほうへ向き直り、 「クーラーも嫌《や》だけど、甲斐性《かいしよ》がないのも嫌《や》」  と笑う。 「でもね、今までいろんな人にここを貸したけど、あんたがたには長くいてもらいたいわ」 「見込まれたんですよ、所長」  岩瀬が新聞を畳み、時計を見ながら言った。 「好きなのよ、探偵さんが。だって珍しいもの」  婆さんはとなりの西尾印刷所の社長の母親なのだ。以前はこの家に住んでいて、町内の古株の一人なのである。 「さて、ぼつぼつ行こうか」  岩瀬が立ちあがると、風間健一も一緒に席を立った。 「じゃあ行って参《まい》ります」  岩瀬は叮嚀《ていねい》に言い、となりの婆さんにも、 「失礼します」  と挨拶《あいさつ》して階段をおりて行った。婆さんは満足そうに岩瀬のうしろ姿を見送った。 「あれが本当よ。健ちゃん……風間って言う子よ……ああいうのは駄目《だめ》。うちの浩介《こうすけ》とおんなじ。礼儀も挨拶もなしなんだから」 「風間はおたくの浩介君と仲がいいようですね」 「類は友を呼ぶって、ね。朱《しゆ》にまじわると赤くなっちゃうから」 「どっちが朱です」 「どっちもどっちよ」  婆さんはそう言ってから、アハハ……と男のようにのけぞって笑った。     4 「暑いな、まったく」  となりの婆さんが帰って三十分ほどすると、突然下町が腹立たしげに言った。  北尾がさっと立ちあがり、裏の窓をあけて来た。裏の窓は両国駅のほうに向いている。 「北さん」  下町がすまなそうに言う。 「何ですか」 「そうこまかく気をつかわなくていいのに」 「いや、わたしも暑いですから」 「僕より年も上だし、社長さんに今みたいなことをされては困ってしまう」  すると茂木正子が眉をすくめた。 「すみません、気がきかないで」 「社長だなんて……」  北尾は歪んだ顔になった。 「古傷に触れないでくださいよ」 「古傷……」  下町は意外そうに北尾をみつめ、すぐ笑い出した。 「社長と言ったってちっぽけな会社ですよ。それも、ものの見事に潰《つぶ》してしまいました。以前は以前、今は今です。調査マンとしては一年生ですから」  下町は同情するような目で頷《うなず》いて見せた。 「裏をあけるといくらか風が通りますね」  茂木正子が言う。 「クーラーとまでは行かなくても、扇風機くらいは置かなければな」  下町がつぶやくように言い、机の上に両肱《りようひじ》をついて北尾をみつめた。 「どう言うんだろうね。ぼんやり考えている時、どうかすると突然過ぎた昔に起った嫌なことを思い泛ベてしまう。北さんはそういうことない……」 「ありますよ。忘れてしまった筈のことなのに、頭いっぱいにはっきり思い出してしまう。あれは嫌なもんですね」 「今もそれだったんですよ。思い出したってもう糞《くそ》の役《やく》にも立たないのにね。そいつを追い払おうとして、つい意味もないことを強く言ってしまうんです。中年の症状ですかね」 「さあ、どうでしょう。わたしなんか、嫌なことだらけだし」  茂木正子が口をはさんだ。 「あたしもそうなんですよ。そんなとき、ああ睡《ねむ》い、なんて大きな声で言うのが癖になっちゃってて。こないだなんか、帰りの電車んん中で突然、ああ睡い、って言っちゃって……。まわりの人に変な顔で見られちゃった」 「たそがれかなあ」  下町は焦点のはっきりしない目を窓のほうへ向けた。 「何かこう、派手《はで》な仕事でも舞い込んで来ないものですかね」  北尾が話題をかえた。午前中から意気銷沈《いきしようちん》していてはどうしようもないと思ったのだろう。だが、 「と言っても、探偵の仕事に派手なのはあるわけがないしな」  と苦笑してつけ加える。  ガラガラッとまた下で戸をあける音がした。 「誰かしら」  茂木正子が言った。たいした客があるわけでもないのに、戸をあけるたびそう言うのが癖のようになっている。近づいて来る足音はかなり荒っぽい。 「こんちわ」  ドアをあけて若い女の子が顔をのぞかせた。 「三楽《さんらく》ですけど、器《うつわ》、もらって行きます」  中華そば屋の子だった。 「あら、早いのね」 「いつもとおなじです」  三楽の子は無表情で言い、ドアのそばの床《ゆか》に置いてあった器を取りあげるとすぐ階段をおりて行った。 「昼は何にしようかな」  下町がつぶやいた。 「わたしは冷し中華」  北尾が言う。 「僕もそうしよう。茂木君、今日は早目に注文してくれないか」 「何時ごろです」 「十一時半。一時までに月村《つきむら》さんのところへ行かなくてはならないから」 「はい」  茂木正子はちらりと腕時計《うでどけい》を見て答えた。 「わたしもご一緒するように言われておりますが、月村先生のご用というのは何なのでしょう」  北尾が真顔で尋《たず》ねる。 「先生というほどのことはない」  下町は笑った。土地の区会議員なのだ。ときどき地元のそう言った小政治家から仕事の依頼が来るのだ。政敵の私行を暴く片棒をかつがされる場合もあるし、選挙が近くなると、幹部運動員の尾行調査を頼まれることも多い。運動費が約束通り流れているかどうかは、候補者にとって最も関心のあるところだからだ。  下町は新米探偵の北尾に、そうしたことを説明してやった。そもそも当の北尾にしてからが、或る都議の紹介《しようかい》で下町探偵局へ就職した男なのである。 「すると、わたしたちは汚職事件のようなことにもタッチするわけですか」  北尾は大真面目《おおまじめ》であった。 「場合によってはそういう調査もあり得るけれど……うちのようなところでは、まずないでしょうな」  下町は笑った。 「あら、もう十一時半だわ」  茂木正子はあわてて受話器をとりあげ、ダイアルをまわした。 「下町《したまち》探偵局ですけど、冷し中華をふたつ」  正子も「シタマチ」と言っている。もう「シモマチ」では通用しなくなっているのだ。     5  正子はいつも弁当持参だ。住まいは平井の四丁目で、国電だと両国から錦糸町《きんしちよう》、亀戸《かめいど》、平井《ひらい》と三つ目の駅になる。仕事以外で正子が話すことと言ったら、たいていは身内の噂《うわさ》ばなしである。葛西橋《かさいばし》のほうにいる兄貴とか、遠洋漁業の船に乗っている弟とか堀切《ほりきり》の叔父さんとか。だからもう、下町探偵局の連中は正子の身内を、会ったこともないのによく知ってしまっていた。 「干鱈《ひだら》を弟のお嫁《よめ》さんが送って来てくれたんですよ」  三楽へ電話したあと、正子は自分の弁当のことを思い泛《うか》ベたらしく、またそんな風に言った。 「遠洋漁業で干鱈かい」  下町がからかう。 「違いますよ、所長」  正子は少しムキになって言う。 「弟はずっと船に乗ったきりなんです。お嫁さんが送ってくれたんです。おじいちゃんが好きだからって」 「君のおじいさんは歯が丈夫なんだな。干鱈なんて固いのに」 「ええ、歯はまだ丈夫なんです」 「兄弟が大勢でいいですね」  北尾が言った。正子はうれしそうに微笑《びしよう》した。  と、また下で戸のあく音がした。正子はちょっと耳を澄《す》ませ、 「あらやだ、三楽だわ」  と言った。たしかにちょっと荒っぽい足音は、さっき器《うつわ》を取りに来た女の子のものらしかった。 「お待ち遠さま」  やはり三楽の女の子だった。 「随分《ずいぶん》早いのね」  正子は立ちあがり、机をぐるりとまわって冷し中華の皿を受取る。 「ええ」  三楽の子は、珍しくはにかんだような表情を見せて言った。 「注文が早かったから」  いつもならほうり出すように置いてすぐ帰るのに、その子はなぜか突っ立ったままじっとしていた。 「あら、なあに……」  正子が気付いて尋ねた。 「あの、探偵してもらうの、どうすればいいんですか」 「探偵……」 「ここ、探偵局でしょう」 「ええそうだけど」 「探偵してもらいたいんです」 「誰が……」 「あたしです」 「あらやだ、あんた何か調査しなきゃならないことがあるの」  下町と北尾も呆気《あつけ》にとられて二人のやりとりをみつめている。 「誰でも頼めるんじゃないんですか」 「そりゃ頼めるわよ」 「じゃあお願いします」  三楽の女の子はペコリと頭をさげた。 「君、名前は……」  下町が尋ねた。 「崎山《さきやま》です。崎山和子って言います」 「崎山和子」 「はい。申込用紙か何かあるんですか」 「場合によってはそういうものを出していただくが、なくてもかまわないよ」 「どうやって頼むんですか」 「人によっていろいろよ」  正子が教えた。 「電話をかけてくれれば、約束の場所でこっそり会うこともあるし」  すると崎山和子はおかしそうな表情になった。 「毎日ここへ出前に来てるんだから」  今更そんな必要もあるまいという顔だ。 「どんな調査をして欲しいの」 「今言うんですか」  下町が口をはさんだ。 「言いにくければあとでもいいし、誰か君の言い易い人にだけ言ってくれてもいいんだ。でも、君が依頼人だなんて、ちょっと度胆《どぎも》を抜かれたなあ」 「お金は用意してあるんだけど、足りるかどうか心配なんです。いくらぐらいかかるものなんですか」 「そりゃ、調査の種類とか内容によるね。君、東京の人……」 「いいえ、愛知県です」 「尋ね人かい」  崎山和子はあいまいに首を振って答えなかった。 「とにかく、探偵社というのはどんな小さなことでもお引受けするのがたてまえになっているんだよ。その必要があるのなら気軽に言ってくれていい」 「はい。いまいそがしいから、お店がおわったらゆっくりお願いに来ます」 「三楽は何時までやっているんだっけな」 「十一時までです」  北尾が目を丸くした。 「あんた、朝の十時頃からそんな時間まで働いているのかね」 「住込みだから」 「大変だなあ、それは」  北尾はひどく感心したようだった。 「僕はここに住んでるから何時でもかまわないが……今夜にでもゆっくり話すかね」 「はい」 「じゃあ何時にしようか」 「十一時半じゃいけませんか」 「いいよ。じゃあその時間にこの事務所にいてあげよう。もし都合でその時間にいられないときは、二階の電気が消えてるから中へ入らなくてもすぐ判るだろう」 「お願いします」  三楽の崎山和子はまたペコリと頭をさげると、ジュラルミンの岡持《おかもち》をぶらさげて階段をおりて行った。 「どこにお客がいるか判らないものですね」  北尾は割箸《わりばし》をとりあげ、ふたつに割りながら言った。 「どういうことなんだか……」  下町はため息まじりにつぶやく。 「所長も物好きですわ。きっと彼氏の身許《みもと》調査か何かじゃないんですか。あの年頃の子って、突拍子もないことを思いつくものだし」 「でも、なかなか真剣なようでしたよ」  北尾は毎日のように見ている三楽の子に、あらためて好感を抱いたようであった。 「親か何かを探して苦労しているんだったら放っては置けませんな」  北尾は麺《めん》をはさんだ箸《はし》を持ちあげながらそう言った。     6  その午後、下町探偵局は茂木正子がいるだけで、夕方まで人の出入りはなかった。岩瀬と風間はほかの探偵社の助《すけ》っ人《と》に狩り出されていたし、下町と北尾は区会議員のところで長々と引きとめられていた。  と言っても、決して商売|繁昌《はんじよう》というわけにはならない。都議や区議の仕事は、いわば地縁につながる身内からのたのまれごとのようなもので、余程《よほど》のことでない限り勤労奉仕に近い。また同業者の助っ人仕事は、お互いに持ちつもたれつだから、まるまるサービスということはないにせよ、報酬《ほうしゆう》も仲間相場という奴で、大した足しにはならない。どちらも下町探偵局にとっては、将来何か相手を利用するような際の種まき作業で、ぶらぶら遊んでいるよりはマシと言ったところである。  そしてどうやら、助っ人に行った岩瀬と風間は帰らないようであった。調査は尾行が基本と言われるような仕事だけに、一度はじめると先のことなどまったく判らなくなる。まして今日は他社の仕事だから、連絡もその会社へするのが先になり、下町探偵局へはろくに電話も入らないようだった。  北尾も出先からそのまま家へ帰ったようで、六時になると茂木正子は窓をしめ、弁当箱の入った大きなハンド・バッグをかかえて階段をおり、歪んだ玄関の戸に鍵をかけて帰って行った。  そのささやかなオフィスに灯りがついたのは十時半ごろで、それから一時間ほどすると、約束どおり崎山和子がやって来てガラガラと戸をあけ、二階へあがって行った。 「あの……こういう人の家庭を調べてもらいたいんです」  崎山和子は下町の前へ、小さなメモを置いた。 「室川重信《むろかわしげのぶ》か」  下町はメモの文字を読んだ。 「この人を探しているのかね」 「いいえ、住所は判っています」 「ほう」 「中野区鷺宮《なかのくさぎのみや》 二の四十です」  下町はメモを机の上へ置いて崎山和子の顔をみつめた。 「君、いくつだい」 「昭和二十三年二月十日生まれ」 「愛知県の生まれとか言ったね」 「はい」 「愛知県のどこ」 「宝飯《ほい》郡」 「豊橋《とよはし》の近くだね」 「そう」 「ご両親は……」  崎山和子は昼間して見せたように、あいまいに首を横に振った。丸顔で堅肥《かたぶと》り、化粧《けしよう》っ気《け》はまるでなかった。よく見ると表情にどこか思いつめたようなところがあり、かなり頑固《がんこ》な性格のように思えた。 「だから、探すのじゃなくて、その人の家庭を調べてもらいたいんです」 「君、家庭を調べると言ってもいろいろあるんだよ」  崎山和子は意外そうな顔で下町をみつめた。 「家族構成、資産状況……いろいろさ。君がこの室川重信という人の家庭のどんな部分を知りたいのか判れば、僕らも余分な調査をしなくてすむ。それはどこの探偵社へ行っても同じことを言われるだろうね。君が何もかも必要だと言うんなら、応接間にかけてある絵のことから、飼《か》っている犬や猫の名前まで調べてあげるけれど。それじゃ君のお金が無駄になってしまうだろうしね」  崎山和子は黙り込んでしまった。自分の内側にとじこもって、ぶっても蹴《け》っても泣声ひとつあげないという、あの不貞腐《ふてくさ》れたような女の顔になっている。  下町は相手の態度がかわるのをじっと根気よく待っていた。カチカチと壁の安時計が時を刻《きざ》み、両国駅の構内アナウンスの声が何やら物哀《ものがな》しく風に乗って聞こえている。 「あたし、ラーメン屋なんか嫌なんです」  やっと口をひらいた崎山和子の言葉は、下町の予想していなかったものだった。 「そうだろうね」  だが下町はいかにも判っているというように頷《うなず》いて見せた。 「おかみさんもおやじさんも、人をコキ使って当たり前みたい。家族と同じだなんてよその人には調子のいいこと言ってるけど、お給料だって安いし、たまのお休みも留守番させるんです。自分たちはどこかへ遊びに行っちゃって」 「住込みは辛いよなあ」 「それに、ゴキブリがいるんです。あのうち」 「ゴキブリか」 「うようよいるんです。あたし、ゴキブリ大嫌いです」 「別なところへ移ったらいいじゃないか」 「ええ。そうなんです。あたし、いい家《うち》のお手伝いさんになりたくて」 「お手伝いさんなら、仕事はいくらでもあるよ。今はどこでもお手伝いさんがいなくて困ってるというじゃないか」 「いい家がいいんです」 「そりゃそうだな」  下町は机の上のメモに目を落した。 「あ……それでこの家庭を調べろというわけだね」 「ええ。休みの日にその家の前へ何度も行って見て来たんです。黄色っぽい石の塀《へい》がずっとあって、茶色いタイルみたいなのを敷いた玄関があって、何か外国の紋章みたいなのを彫《ほ》った大きな木のドアがついてるんです。犬もいるみたいです。中で啼声《なきごえ》がしていたから」 「そいつはまた、よく調べたもんだな」 「遊びに行くとこもないし、あっちこっち休みの日は歩きまわっているんです。お手伝いに行くのならどんな家がいいかと思って」 「この、鷺宮の室川という家が気に入ったんだね」 「はい」  下町は所番地をもう一度言わせ、崎山和子が持って来たメモに素早く書き添えた。 「なるほどね。就職先の調査というわけか」 「とっても感じがいい家なんです」 「お手伝いとしてその家へ入りたいと言うと、家族構成が主になるかな。君は子供は嫌いかね」 「いいえ。子供好きなんです」 「じゃ、老人がいたらよすかい」 「そんなことありません」 「じゃあ、年頃の息子がいて、そいつの素行《そこう》が悪かったらどうする」 「平気です。第一あたしなんか、あんないい家の子は相手にしっこないわ」  崎山和子は笑いもせずに言った。 「それじゃ君、何のために調査するんだい。警戒することは何もないじゃないか」  下町に言われ、崎山和子はまた不貞腐れたような沈黙をはじめたが、今度は時間が短かかった。 「違うんです」 「どう違うの」 「家庭を調べるって言ったけど、その家庭のことじゃないんです」  机の上のメモを顎《あご》でしゃくって見せる。 「じゃあどの家庭のことだい」  下町はできるだけ柔和な表情で尋ねた。 「急にその家へ行って、お手伝いにしてくださいなんて、言えないでしょう。お手伝いが要るかどうかも判らないし」 「なるほど、そういうことか」  下町は頷いた。 「お手伝いさんを必要としているかどうか調べて欲しいと言うんだね」 「はい」 「それなら簡単だよ」  下町は笑った。 「でも、それだけじゃないんです」  崎山和子は真剣な顔で体を乗り出して来た。 「三楽みたいな店で働いてるくらいだから、あたしって、身許もはっきりしないでしょう。だから、もしお手伝いに入れるなら、誰かその家の知り合いで、ちゃんとした人の紹介で行かなくてはいけないんです」 「また随分堅いことを考えてるんだな」 「どうせああいう家のお手伝いになるのなら、ちゃんとしたいんです」 「まあ、それに越したことはないがね」 「一生懸命やりますから、お願いします」 「僕の家へ来るわけじゃないんだから、そう改まってお願いされても困るけどなあ……」  下町は冗談めかして言ったが、何か考え込んでいるようだった。     7 「つまり、コネを探せとこういうわけさ」  朝の光がさす中で、タオルを手にした下町が北尾に言った。 「お手伝いさんというのは、いまなり手がないんでしょう」 「そうらしいね。僕らにはまるで関係ないが」 「昔は使うほうが身許を調べたって言うのに、まるであべこべですな」  北尾は笑った。 「簡単すぎて申しわけないみたいだが、北さん、この件をやって見てくれませんか」 「はあ」  律義《りちぎ》な北尾もさすがに気のない返事をした。 「あら所長、引受けちゃったんですか」  茂木正子が驚いたように言った。 「ああ、引受けたよ。商売だからね」 「それにしても……ねえ」  正子は北尾を見て不服そうな顔をした。 「やらせていただきます」  北尾は下町に軽く頭をさげて見せた。 「あの出前の子がしあわせになることですし」 「さあ、そいつはどうかな」 「は……」  北尾が下町をみつめる。下町はあわてて手を横に振った。 「いや、何でもないんですよ。僕はただ、あの崎山和子って子がその家へ望み通りお手伝いさんとして入りこめたからと言って、必ずしあわせになるとは限らないと言ったまでですよ」 「それはそうでしょうけど、ゴキブリだらけの中でコキ使われるよりはいいでしょう。それが望みなんだし」 「まあそういうことですね」 「お手伝いさんて、今はとても大事にされるんですって」 「ええ、そうらしいですね。一部屋ちゃんともらって、テレビつきか何かで。休みだってきちんとしているし、昔とは大違いだ」 「あの子は急いでるらしい。よければ今日から取りかかってもらいますかね」  下町が言うと北尾は頭を掻《か》いた。 「それで、どこから手をつけるんでしょうか」 「室川家の姻戚《いんせき》関係から洗ったらいいでしょう。誰《だれ》かこっち方面に縁のある人物がいたらしめたものです」 「こっち方面と言うと……」 「墨田《すみだ》、江東《こうとう》方面にですよ」 「ああなるほど」 「あとはその人物を崎山和子に教えてやればいい」 「え……」  北尾は意外そうに問い返した。 「紹介《しようかい》してやるんじゃないんですか」 「北さん、うちは探偵社ですよ。身の上相談じゃないし、ましていちいち就職の世話まで焼く必要はないんです」 「でも、依頼人が中華そば屋の女出前持ちですよ。そのくらいしてやらなければ、たとえ教えてやったってうまくそんないい家の親類みたいな連中に話を持って行けるかどうか」 「多分、うまく行かないでしょうね」 「じゃ、所長はみすみす駄目《だめ》と判《わか》ってるのに調査を引受けたんですか」 「うまく行くかも知れないし、駄目かも知れない。でも、調査はきちんとやれるはずです。この件は、崎山和子が鷺宮の室川家へお手伝いとして就職するための前段階として必要な調査なのです。あの子はそこまできちんと言う知識がなかったけれど、僕はあなたに、あの子が接触できそうなルートを探《さが》し出すまで、約束した料金で調査してやるつもりなのです。精一杯やっても、僕らの仕事はそこまでですよ」 「はあ」  北尾は下町に言われ、渋々《しぶしぶ》引きさがったようであった。 「でも、ああいう一生懸命働く子には、望みを叶《かな》えてやりたいものですね」  下町は答えずに新聞を取りあげ、それで北尾から顔を隠《かく》してしまった。 「じゃあ、何はともあれ出掛けて来ます」  北尾は立ちあがり、階段を鳴らして暑い街へ出て行った。 「岩さんと健ちゃんは遅くなるそうです」  茂木正子がそう報告した。昨夜の助《すけ》っ人《と》仕事が夜中までかかったらしかった。 「ねえ所長、北さんに厳しすぎたみたいですよ」 「仕事は仕事だよ」  下町はぶっきら棒に答えた。 「僕らは依頼人の言う通りの調査をすればいいんだ。君も気をつけてくれよ」 「でも、三楽のあの子もちょっと変ってるわ」  正子は不服そうにつぶやいた。 「僕もちょっと出てくる」  下町は急に新聞を机の上に置くと、憤《おこ》ったように言って階段へ向かった。 「どちらへ……」 「近所だよ。すぐ戻る」  下町は階段をおり、廊下を通って外へ出た。 「おや、こんにちわ。今日は早いのね」  となりの婆さんがブロック塀の下を掃《は》いていた。 「今日も暑いですね」  下町は挨拶《あいさつ》がわりにそう言うと、ブロック塀とは反対の、駅前へ抜ける横丁のほうへ歩いて行った。  崎山和子がなぜ特定の家のお手伝いになりたがるのか、下町はそれが気になって仕方がなかったのだ。  この小さな町のどこかに、崎山和子のことをもう少し詳しく話してくれる人物がいる筈だ。……下町はそう思いながら、小さな飲食店が並ぶ駅前への横丁へ入って行った。     8  国電浅草橋駅を出た電車は、割合ゆっくりと隅田川の鉄橋を渡る。川向こうの両国駅までの距離が短かくて、充分速度をあげるに至らないのだ。その総武線《そうぶせん》は、両国から亀戸《かめいど》の少し先まで、京葉《けいよう》道路と平行して一直線に東へのびている。  下町誠一は両側に小さな飲食店が並ぶ幅の狭い道を抜けると左へ曲った。その道の左側は両国の町で、まっすぐ行けば隅田川、右側は総武線両国駅のコンクリートの壁である。  その道を進んで行く下町は、急に左側へ寄り、 「やあ」  と言った。黒とも茶とも灰色ともつかないややこしい色をした古いコンクリートの壁に四角い穴があいていて、そこに白い上っ張りを着た中年の男が椅子《いす》に腰かけて笑っていた。 「いらっしゃい」  それは古びた鉄筋コンクリートの建物の一部であった。道から三、四段、コンクリートの段があって、ピカピカ光るスチールと黒いレザーばりの床屋《とこや》の椅子がひとつ、でん、と置いてあった。あとはお定まりで、鏡とシャンプー台、鋏《はさみ》に剃刀《かみそり》にバリカンに櫛《くし》にローションやポマードの容器。入口の戸も窓も綺麗《きれい》さっぱりあけ放してあって、ひどく風通しがいい上に、半分地下のような具合だから実際以上ひんやりとした感じに見えている。  その床屋、実は駅前の隅田ホテルの一部なのである。隅田ホテルは戦前からの古いホテルで、今の日大講堂が国技館だった頃は、上客を集めて大層|繁昌《はんじよう》していたということだ。  とにかく、ロビーがあり食堂があり、今では随分重厚な感じがする本格的なホテルで、だから建物の東の隅にはちゃんと理容室もついている。ただし、ホテルの理容室だから設備は一人分だけだ。 「だいぶ伸びましたね」  床屋は椅子から立って言った。 「貧乏ひまなしさ」  下町は一ツしかない鏡の前の椅子に乗り、ゆったりと背をもたれた。 「でも髭《ひげ》は当たってる」  床屋はうしろへまわって、鏡の中の下町へおかしそうに言った。 「うん、さっき剃《そ》っちゃった。ここへ来る気じゃなかったから」  床屋は下町の体へ白い布をかけながら笑う。 「急にひまになったわけ……」 「そう言われると、いつもいそがしいみたいだな」  下町も苦笑する。 「探偵さんと言うのは、いついそがしいの」 「いつ……」 「たとえばさ、二《につ》・八《ぱち》はひまだとか、よく言うじゃないの」 「探偵はいついそがしいのかな」  下町は本気な顔になって首をかしげる。そのかしげた首を、床屋がうしろからちょっと邪慳《じやけん》にまっすぐにさせる。 「床屋さんは暮れだね」 「そう。大晦日《おおみそか》なんか、毎年除夜の鐘を聞きながらチョキチョキやってる」 「そば屋とおんなじか」 「そうそう。特にこの辺は小さな商売をやってる家《うち》が多いからね。大晦日だってどうしてもギリギリまで仕事になっちゃう。でも、今はサラリーマンの人なんか、随分早くから休んじゃうそうだね」 「そばって言えば、ラーメン屋はどうなんだろう」 「ラーメン屋……」 「年越しそばのことさ」 「あれはやっぱし日本そばでなきゃ」 「そうだろうけど、ラーメンで年越しをやる人はいないのかね」  床屋は下町の髪に当てた櫛の手をとめて笑った。 「まだ聞かないね。でも、もうそろそろ年越しラーメンも出る頃だな」 「そこの三楽なんかはどうだろう」 「三楽……。大晦日も遅くまでやってるようだったけど、年越しラーメンはやらないだろうな」 「ラーメン屋も大晦日の晩には日本そばを食うのかね」 「玉屋で聞いて見たら」  玉屋は表通りのそば屋である。 「三楽のラーメンは割りと旨《うま》いぜ」 「そうね」  床屋は仕事にとりかかっている。 「でも毎日じゃ飽きるな」 「あんた、独身だってね」 「そう」 「一度も結婚したことないの」 「いや」 「そうだろうと思った。……どうして別れちゃったか、なんて聞いちゃいけないね」 「言う気もない」 「古傷がいたむ……」 「それほどのことじゃないけど」 「でも、いるんだろうな」  床屋はひとりごとのように言う。 「何が」 「若いピチピチした子がさ。いるよ、いるにきまってるさ。このくらいの顔はね……」  床屋は鏡の中の下町をみつめ、その頬《ほお》の辺を人差指でつついた。 「遊びざかりだもん」 「くたびれた中年がかい」 「そう」  下町はまた苦笑した。それを見て床屋はムキになる。 「ほんとだよ。男も四十過ぎると面白いんだ。いろんなテを知ってるしさ、金だって若いもんよりは自由になるし。でも、あんまり若い子を泣かせちゃいけないよ。罪だもの」 「罪になってみたいよ」 「もっと短かくする……」  床屋は下町に前髪の長さを訊《き》いた。 「暑いから短かいほうがいいよ」 「いつも通りでいい」  下町は櫛《くし》で上向きにされた鏡の中の髪を見て答えた。 「三楽はラーメンより餃子《ぎようざ》がいい」  床屋はまた鋏を鳴らしはじめる。頭の上から電車の音と駅のアナウンスの声が降って来る。軽四輪が前の道をやかましく通り過ぎる。 「あそこの出前の子は真面目《まじめ》な子だね」 「ああ、和ちゃんか」 「和ちゃんて言うのか」 「そう、働きもんだよ。あれは」 「今どき珍しいな。三楽もああいう子がいれば助かるだろう」 「でも、ちょっと陰気でね」 「そうかなあ」 「愛敬《あいきよう》がない。出前くらいならあれでもいいけど、商売には不向きだね」 「それにしても大変だなあ」 「何が」 「あの子、住込みだろ。俺の所へも朝の十時頃から器《うつわ》を取りに来たりする。三楽は夜の十一時までやってるんだろう」 「そりゃ大変だろうけど、あそこの夫婦はよく出来てるから、まるで自分の家の子みたいに扱ってるよ」 「へえ、そうかい」 「だから働き易いんだろ。三楽の子は代々長続きしてるよ。和ちゃんの前の……何と言ったかな。そうそう、美代ちゃんだ。美代ちゃんなんか、あの夫婦が世話して嫁にやったんだそうだよ」 「それはまた親切なもんだな」 「三楽はどっちかって言うと、おかみさんのほうが世話好きなんだよね。それに、今は昔と違って出前の子でも大事にしなけりゃなかなか居ついてくれないしね」 「その点おたくはマスター一人きりだからいいね」 「そう、一人に限る。気が合うしね」  床屋はそう言って笑った。     9  隅田ホテルの理容室を出た下町は、さっぱりした髪を蒸し暑い風になぶらせて、南側の改札口の前から狭い道へ戻って行った。  焼肉定食、その狭い道へ突き出すように、小さな衝立《ついたて》のような看板《かんばん》を入口に置いている店があった。のんびり頭をやっているうちにもう昼近くになっていた。 「おす」  下町は小さな木のドアを押してその店に入った。細長い店内に油の匂いと煙がたちこめている。 「定食」 「定食一丁……」  テーブルを拭いていたおばさんが大声で言う。客は頭の禿《は》げた男が一人だけ。味噌汁《みそしる》をすすりながら上目《うわめ》で下町を見た。この店の定食には、焼肉であれ何であれ、とにかく味噌汁がつくことになっている。 「どうも」  その客に下町のほうから頭をさげて挨拶した。 「こんにちは」  禿げた男はだいぶ肥《ふと》ってコロコロした感じである。歳《とし》は五十がらみ、茶色の夏服を着て、きちんとネクタイをしめている。 「ひまだね。夏がれかな」  下町は椅子に腰をおろしながら店のおばさんに言った。 「まだ十二時前だからよ」  おばさんは店の奥へ行きながら答えた。すぐ下町のテーブルへ冷たい水の入ったコップを運んで来る。 「おしぼりくらい出すといいのにな。外は今日も暑いぜ」 「うちなんかは値段が勝負だからね」  おばさんはからかう様子もなく、素《そ》っ気《け》なく言ってまた奥へ行った。 「どうです、景気は」  下町は肥った禿に言う。 「いけませんよ」  男は当然のことを訊くなと言いたげだった。 「やっぱりねえ」  下町はがっかりして見せる。 「ことにうちの商売はいけませんな。不動産関係は大手も零細《れいさい》も関係なく、どこもいけませんな」  男は食べおわったらしく、そう言いながら箸を置いて右の頬をひくりとさせ、チッ、と歯を鳴らした。 「でも、駅の前にまたビルが建つんじゃありませんか……」 「駅前に……」  禿げて肥った不動産屋が目を剥《む》いた。 「どこに……」 「さあ、そこまでは。隅田ホテルのならびじゃないんですかね」 「まさか」  不動産屋は笑った。 「三楽かどこか、あのあたり」 「嘘《うそ》ですよ」  不動産屋は断言した。 「このあたりで土地が動く気配があったら、わたしの耳に入らないわけがない」 「でしょうなあ。どこのことなんですかね」 「向こう側じゃないんですか。横網《よこあみ》のほうでしょうよ」  ここは両国駅の南側。駅をはさんだ北側が横網という町だ。 「ああ、向こう側か」  下町は納得したように頷《うなず》いた。 「そうだと思った。三楽なんかは古いんでしょう。昔っからの人の筈ですよね」  不動産屋はフィルターつきのでない、紺色のピースの箱をとり出して一本|咥《くわ》えた。 「三楽は古いですよ。以前は今よりずっと土地も広くてね」  マッチを擦《す》りながら言い、最初の煙を吐《は》きだして続ける。 「中華屋になったのは十五、六年前です。先代が土地を半分売ってしまって、長男夫婦が今の中華屋をはじめたんです」 「ほう、もとは広かったんですか」 「ええ。親たちは千歳町《ちとせちよう》にいますよ」  千歳町といえば、京葉道路の向こう側である。 「近いんですね」 「ええ、大通りの向こうですから」 「するとわが社の大家などとは昔馴染《むかしなじみ》かな」  下町が言うと不動産屋はのけぞって笑った。 「そうそう」  下町探偵局のみすぼらしさを知っているし、印刷屋の婆さんの出しゃばりぶりも、このあたりでは誰知らぬ者はないのだ。 「でも、いいご身分だね、あの婆さんも」  不動産屋は笑いながら言う。 「おたくの入ってる建物は、あの婆さんの権利なんだそうでね。だから、おたくが払う家賃はまるまるあの婆さんの小遣《こづか》いになるんですよ」 「へえ……」  下町は毒気《どくけ》を抜かれたような表情になった。 「知らなかったんですか」 「道理で毎月家賃を取りに来ると思った」  所長以下総勢五人の生活の拠点であるオフィスの家賃が、まるまる痩《や》せこけた婆さんの小遣いになってしまうのを知って、下町は何だかなさけなくなってしまったようである。 「千歳町にいる三楽の親たちとは、そりゃもう古い付合いの筈ですよ。幼馴染《おさななじみ》じゃないかな。ひょっとすると学校も一緒だったかも知れませんな」  不動産屋は下町の表情の変化を見て、悪いことを教えてしまったと思ったのだろう。急に話題をそらすと立ちあがり、奥へ行っておばさんに金を払うと、 「それじゃお先」  と言い残して出て行った。 「はいお待たせ」  おばさんが定食をのせた盆を持って来て下町の前へ置く。下町は割箸《わりばし》をとりあげ、じっとみつめていた。 「小遣いか」  溜息《ためいき》まじりに言うと勢いよく割った。     10  オフィスへ戻ると茂木正子が弁当を食べていた。 「おかえりなさい」  あわてて弁当箱の蓋《ふた》をしめ、不明瞭に言う。それが若い娘だったら平気で食事を続けるだろうし、下町もそれが当然と、気にもしなかろう。しかし茂木正子は当年四十二歳で、すでに古い世代に属している。大したことのない男でも上司は上司、律義《りちぎ》に上下の別を弁《わきま》えている。しかもその古さは茂木正子に限ったことではなく、下町探偵局の職員全部に共通しているのだ。下町にとってそれは心の安まることなのだが、同時にぬるま湯につかっているような安易さを感じさせる。 「お茶はいいよ」  席を立とうとする茂木正子に、下町は素早くそう言った。 「お食事、すませたんですか」 「うん」  下町は自分のデスクについた。 「風間と岩さんは……」 「二人とも一度顔を出して、すぐにまた行きました」  きのうの続きで大手の探偵社の助っ人に駆り出されているのだ。 「となりの婆さんはこなかったかい」 「いいえ、きょうはまだ」  茂木正子は微笑《びしよう》し、弁当の蓋をあけ直した。 「変なんだよ」 「何がです……」 「三楽の子のことさ。あの店でそうコキ使われている風でもないようだ」 「あ、そのことでお出掛けになったんですか」 「三楽の評判は悪くない。店の子を大事にしているそうだ」 「だめなんですよ、あの年頃の子は」  茂木正子はちょっと憎《にく》らしげに言った。 「辛抱が足りないんですよ。今の子は我慢するってことを知らないんだから」  オールド・ミスの正子にとって、若い娘はみな敵のように感じられるのだろう。 「でも気になるよ」 「どうしてです」 「辛抱が足りなくてラーメン屋が嫌《きら》いになったのならそれでもいい。たしかに今の若い子ならありがちなことだからな。また、次の仕事をどこかいい家《うち》のお手伝いさんときめてしまったことも、判ろうとすれば判ってやれる。若い内は現在の仕事と全然違う仕事に憧《あこが》れたりしがちなものだ。でも、その家を自分できめ込んでいるのはどういうことかな」 「夢みたいなことを考えているんですよ、きっと」 「そうだろうか」  下町はデスクの上にあったメモを手もとに引き寄せて眺めた。 「中野区鷺宮二の四十、室川重信。しかもこの家へ入り込むコネを探せと探偵社に調査を依頼《いらい》している。いくら夢見がちな年頃だからって、普通の子がそんなことをするだろうか。考えつきもしないんじゃないかな」 「うちがあったからですよ。ここへ毎日出入りして、探偵社を使うってことを簡単なことのように思い込んでるんでしょう」 「夢見がちな年頃と言ったが、実際にはもうそんな年頃でもなくなっている。昭和二十三年生まれじゃないか」 「二十八」 「だろう。なんかこう、変な感じがするよ」  茂木正子はそれには答えず、黙って弁当を食べていた。 「君は二十八のときどうしていたんだい」  正子は弁当に目を向けたまま箸の動きをとめてじっとしていた。 「まだ夢多き乙女《おとめ》と言った感じだったかい」  下町はからかうように言った。 「いいえ」  正子は思い直したように食べはじめた。 「そうだろう。女も二十七、八になれば充分世の中が判って来る。夢多き、どころか大変なリアリストになっている筈じゃないか」  下町はひとりごとのように言い、 「判らんなあ」  と左手の指でデスクを軽く叩《たた》いた。  すると正子が弁当の蓋を、音をたてて閉じた。ちょっと荒々しい感じだった。 「二十八のときはまだ信用金庫にいました」  下町は驚いたように正子をみつめた。正子は弁当箱をしまいはじめる。 「どうしたんだ」 「すみません」  正子は詫《わ》びる表情ではなく、口だけでそう言った。 「あたしの人生なんて、最低でしたわ」  でした、と、まるでもう終ってしまったような言い方をした。下町は返事に困っている。 「二十八のときだって、ちっとも楽しくなんかありませんでした」 「そうか」  下町は溜息《ためいき》をついた。 「悪かったね、昔の話に引っぱり込んで」 「いいえ、そんなことありません」  正子の表情が柔《やわ》らかくなる。 「でも、誰だって過去に思い出したくないことのひとつやふたつあるんです」 「それはそうだ」  どうやら正子の二十八歳は、よくない思い出につながっているらしかった。 「あたし、聞きましたわ」 「何を」 「所長のことです」 「ほう」  下町は正子をみつめて微笑を泛《うか》ベた。 「お子さんのこと」 「そうか」  下町の微笑がふと消えてしまう。 「毒入りのミルクでおなくなりになったんだって」  下町は正子から目をそらし、ハイライトを咥《くわ》えた。 「奥さんともそれでお別れになったとか」  下町は煙草《たばこ》に火をつけて深々と吸う。 「すみません」  正子はまたそう言い、立ちあがるとガタガタと床を鳴らして階段を降りて行った。 「どういうつもりだ」  下町は嘆くようにつぶやいた。  正子の過去に、人に触れられたくない過去があるのは知っていた。しかしそれが二十八歳のときの出来事であったとは知らなかったし、今の会話の流れからは、下町が正子の古傷に爪《つめ》を立てた感じはまったくない筈であった。正子は勝手に古傷をうずかせ、まるで逆襲するように下町の心の傷を剥《む》き出《だ》そうとしたのだ。  なぜそうなのか……。下町は悲しげな目でそう思った。名もなく貧しく虐《しいた》げられた者は、みなあのように偏狭な心になってしまうものなのだろうか。 「女は怕《こわ》い」  下町はまたつぶやき、それで今のちょっとした波立ちを納めてしまうことにした。     11  夕方、北尾貞吉が汗を拭《ふ》き拭き戻って来た。 「ただいま戻りました」 「やあ、お帰りなさい」  下町は気の毒そうに汗まみれの北尾を迎えた。 「立派な家ですなあ」  北尾は感心したように言う。 「鷺宮の家《うち》……」  正子が訊《き》いた。 「そう。三百坪はたっぷりありますよ」 「ふう、そうでしたか」  下町はねぎらうように言った。 「室川重信。相当な人物なんでしょうね」 「やだわ、北さん」  正子が笑った。 「家を見物に行ったみたいな言い方をして」 「ええ、たっぷり拝《おが》ませてもらいましたよ。二階建てですがね、建坪《たてつぼ》も百坪はたっぷりあるでしょう」  北尾は下町のデスクに近寄り、ポケットから茶色の封筒を出して渡すと、折《お》り畳《たた》み式の椅子を引寄せて腰をおろした。 「住民票です」  住民票や戸籍謄本などは、誰にでも手に入る規則になっている。 「一応、と思いましてね。必要なら明日にでも戸籍謄本を取って来ますが」  下町は頷きながら住民票に目を通した。 「大家族だな」 「ええ、今どき珍しいほうですね」  書類によると、室川重信の母親、妻、長男夫婦と孫二人、次男、それに二人の娘たちがひとつ屋根の下に住んでいることになっている。 「次男の洋介というのは外国へ行っているそうです。二人の娘のうち上のほうのは出戻りで、下はそろそろ結婚するようです」 「犬は……」  下町が笑顔で尋《たず》ねた。 「シェパードでした。一頭だけのようです」 「さて」  下町は住民票をデスクに置いて両肱《りようひじ》を突くと、悪戯《いたずら》っぽく重ねた両掌《りようて》の上へ顎《あご》をのせて北尾を見た。 「そんなお屋敷に住んでいるからには、この室川重信、相当な事業家なんでしょうな」 「ええ」  北尾は調査マンとして単独で仕事をするのがはじめてだっただけに、テストを受けているような顔で神妙に答えた。 「南日本化学工業の社長さんです」  悪戯《いたずら》っぽく笑っていた下町の目が急に細くなった。笑顔だけはそのまま残している。 「ほう、南日本化学のね。それは大したもんだ」  正子は素早く立って、古びたスチール製の書架《しよか》から厚い本を取り、ページをめくりはじめた。 「あったかい」  下町はそのほうを見ずに言う。 「南……南日本……、あ、ありましたわ。資本金百六十億、本社は丸の内です」 「大社長だな」 「ええ」 「謄本、要《い》りますか」  北尾が訊く。 「要りそうですね。崎山和子が利用できるコネを探さなくてはならないんだから。でも、その前に会社関係を当たったほうが早いんじゃないかな」 「はい、そうします」  新米調査マンの北尾は素直に頷《うなず》いた。 「所長、本気なんですね」  正子が感心したように言った。 「何が」 「三楽の子の面倒を本気で見てやるつもりなんですね」 「おいおい、面倒を見る気なんかありはしないぜ。あの子は依頼者だ。お客さんじゃないか」 「でもなんだか、ばかみたい」 「なぜだい」 「だって、ねえ」  ねえ、と正子は北尾に同意を求めた。北尾は疲れたような微笑を泛《うか》ベているだけだった。 「だって」  正子は下町に顔を向け直す。 「たかがお手伝いさんになるための調査に本腰を入れるなんて」 「そう言うがね」  下町はたしなめるように言った。 「仮《か》りに君が崎山和子の立場になってごらん。どうせ身を粉にして働くのなら、少しでも品のいい、自分が誇りを持てる職場で働きたいと思うのが人情だろう。ひょっとするとあの子は、案外行儀見習いと言ったようなことまで考えに入れているかも知れないじゃないか。毎日三楽で一生懸命働きながら、休みの日になると自分のイメージに合う家を探しまわっていたとすれば、それはそれで結構な向上心だよ。でも、人にはそれぞれ事情がある」  下町は正子をみつめた。昼食のときのことを思い出させようとしているような間合いであった。 「ええ」  正子が渋々|頷《うなず》く。 「こういうものを」  下町はデスクの上の住民票をつまんで正子に示した。 「その家へ持って行けないような事情があるとしたらどうだね。家出をして三楽にころがり込み、いまだに実家へは顔を出せないとしたら。いや、ひょっとすると結婚しているかも知れないよ」 「まさか」 「二十八だぜ。三楽にはもう二年ほどいるが、二年引いても二十六だろう。結婚していてもおかしくない」 「そうですね」  北尾が口をはさんだ。 「婚家《こんか》を飛び出したのかも知れませんね。その時の事情が、行儀とか何とか、そういうことにからんでいるとすれば、是が非でもいい家庭に入り込んで作法を身につけ、見返してやりたいとか」 「嘘《うそ》」  正子はきつい顔になって言った。 「そんな古めかしいこと、今の子が考えるもんですか」  吐《は》きだすような言い方だった。     12  それから二、三日、下町は近所を歩きまわり、オフィスに落着いていなかった。 「探偵さん、お留守……」  下町が出かけたあとへ、印刷屋の婆さんがあがって来て言った。いつものように浴衣《ゆかた》に白足袋で、鉢植えのようなものを持っていた。 「ええ」  正子は面倒臭そうな顔だったが、それでも立ちあがって椅子をすすめた。 「どっこいしょ、と」  婆さんは下町のデスクの前を自分の席ときめこんでいて、いつものように坐った。 「暑いけど、風があるから少しは楽だわ」 「そうですね」 「冷たいものでも御馳走しなさいよ、って言いたいとこだけど、ここの家《うち》は冷蔵庫もないし、あんたもよくこんな所で辛抱してるわねえ。感心しちゃう」  正子は答えようがなく、黙って笑っていた。 「盆踊り、行った……」 「盆踊り、ですか」 「やあねえ、町内の盆踊りだったのに」 「いつです」 「おとついときのうよ」 「そうだったんですか」 「土地の者じゃないと薄情なもんね」 「すみません。でも、知らなかったんです。この辺で盆踊りなんかする場所があるんですか」 「あるわよ。三丁目の吉良《きら》公園のところ」 「あら、あんな所で……」 「狭いけどね。四丁目は両国公園。小学校のとなりよ」 「みんな通りの向こう側なんですね」  両国という町は京葉道路の両側にあるのだ。 「そりゃ、いくらなんでもこっち側で盆踊りをする場所なんかないわよ。で、二丁目はやらないのよ。大通りの向こうっかたにでっかい場所があるけど、あそこは貸してくれないしね」  旧国技館、今の日大講堂のことを言っているのだ。 「吉良公園って、忠臣蔵の、あの吉良《きら》の邸のあとなんですってね」 「そうよ。本所松坂町《ほんじよまつざかちよう》。あんた、そんなことも知らなかったの」  婆さんは呆《あき》れたように言った。 「あの先は堅川《たてかわ》を渡って……と言ったって今じゃ高速道路になっちゃって、上を車がビュンビュンだけどさ、その向こうの千歳町《ちとせちよう》なんかは水道局のグラウンドでやるから、広さはたっぷりしてるの」  婆さんはちょっと羨《うらや》ましそうな顔になった。お祭りとか盆踊りとか、そういうにぎやかなことが好きなのだろう。 「なんですの、それ」  正子がのぞき込むようにして訊いた。 「梔子《くちなし》よ」 「ああ、梔子ですの」 「そう。ここん家《ち》があんまり殺風景だもんだから、持って来てあげたの。あんた、お花くらい飾りなさいよ、たまには」 「そうですね」  正子は苦笑している。細い枝に咲きかけの白い花がついていた。 「植木鉢なんて贅沢なことは言わないでよ」  婆さんは念を押すように言う。空き缶に土をつめてあるのだ。 「水抜きの穴をあけてあるから大丈夫よ」  正子はそう言われ、両手で缶を持ちあげて見た。 「古いお皿か何かを下に敷いときなさい」 「はい、そうしますわ」 「みんな結構いそがしそうにしてるじゃない。このところいつのぞいてもガランとしてるのね」 「ええ、なんとか」  正子はとりあえず下町のデスクの上の、大きな真鍮《しんちゆう》の灰皿へその梔子を植えた空き缶を置いた。底が湿っているのだ。 「それともサボってるのかしら。ここは暑いから、みんな外で適当にやってるのかも知れないよ。パチンコ屋なんか、寒いほど冷たくしてるからね。あれじゃ長くいられやしない。商売とは言え、いろんな手を考えるもんだねえ」 「あら、お婆ちゃんはパチンコをなさるんですか」 「ええ、やりますとも。こう見えたって楽隠居《らくいんきよ》ですからね」  婆さんはケタケタと笑って立ちあがった。 「さて、金棒引きに出掛けるかな」  正子が思わず噴《ふ》き出す。 「さてはあんたもあたしの陰口を知ってるね」 「そんな、お婆ちゃん」 「いいの、いいの」  婆さんはコトコトと階段をおりはじめる。 「あたしゃ町内の金棒引き。それでいいんだよ」  正子はその声を聞きながら、白い梔子の花にそっと指を触れて見ていた。  どうやら婆さんは、裏口からとなりの印刷屋へ戻ったようであった。ほとんど入れかわりにガラガラと戸のあく音がして、男の靴音らしいのが階段をあがって来る。  正子は耳を傾け、下町だと知ったようであった。 「おかえりなさい」  まだ姿が見えぬうちに言った。 「今日はいくらかしのぎ易いな」  下町がそう言った。 「風があるから」  正子が笑った。 「おとなりのお婆ちゃんがおんなじことを言ってました」 「来たのか」 「ええ。おかしいんですよ。散々勝手なことを喋って、さあ金棒引きに出掛けるか、ですって」  下町も声をあげて笑う。 「あの婆さんらしいな」  そう言って自分の樫《かし》の木でできた古い回転椅子に腰をおろした。 「梔子か」 「ええ。お婆ちゃんが持って来てくれたんです」 「となりの庭に生えてるよ。花が咲きはじめたんで分けてくれたんだろう。親切だな」 「三楽の子のこと、何か判りましたか」 「ん……」  下町は気のない返事をした。 「随分熱心にお調べだから、何かもう判ったのかと……」  正子は言いかけてやめた。下町の表情に驚いたらしい。下町は何かまがまがしい感じのする顔で梔子の花を睨《にら》みつけていた。  正子は花に虫でもついていたのかと思ったらしい。だが、よく見ると下町の視線はその下の空き缶に注がれているようだった。 「あ……」  正子は声を呑《の》んだ。  粉ミルクの缶だった。 「すみません、所長」 「何がだ」  下町は短かく不機嫌な声で言う。 「すみません、気がつかなくて」  正子は素早くデスクに近寄ると、真鍮の灰皿の上の缶を取り、ガタガタと階段を駆けおりて行った。 「茂木君」  腰かけたまま下町が呼んだが答えはなく、すぐにガラガラと戸をあけて出て行ったようであった。缶のかわりを探しに行ったらしい。 「あの事件が起った頃の缶だ」  下町は、吐きすてるように言った。  昔、粉ミルクで大勢の赤ん坊が死んだ。メーカーの手落ちで、製造中に毒が混入してしまったのだ。それが大量に市場に出まわり、下町の愛児もそのせいで死んでしまった。今もその毒入りミルクの後遺症で苦しんでいる人々がいる。子も親もだ。  メーカーは責任をのがれようとした。自社のミルクの害を受けた子供の数を、できるだけ少なかったことにしたがった。告発する側とメーカーの間で、激しい争いが起った。  そして結局、かなりの数の子供が毒入りミルクによる被害者と認定され、補償を受けることになった。しかし、その補償ですべてが解決するわけのものではなく、多くの親子が今も苦しみ続けている。  だが、それ以前に、事実関係があいまいだとされ、切りすてられてしまった者も少なくない。下町の愛児は抵抗力が特に弱かったのだろうか。すぐに死んでしまい、下町が毒入りミルク事件に気付いたときは、もう灰になってしまっていた。  下町は自分も母乳で育ったのだからと、妻に母乳で育てることをすすめていた。だが若い妻は、体型の崩れを気にして人工栄養を用いた。或る時期、さっきまでデスクの上に置いてあったあのデザインのミルク缶が、下町の家にもたくさんころがっていたのだ。その缶は、下町が幸福の絶頂にいたときのシンボルであり、同時にすべての不運の予兆でもあったのである。  下町の愛した美しい妻は、陰湿な諍《あらそ》いの末に他の男のもとへはしった。気力の失せた下町は、やがて職を失い、とめどもなく坂をころげ落ちて、この殺風景なオフィスへ辿《たど》りついたのであった。 「糞《くそ》っ」  下町の顔についぞ見せたことのない怒りの表情があった。瞳には怨念《おんねん》が燃えあがっていた。 「やってやる」  下町は歯がみするように呻《うめ》いた。     13  雨の中を岩瀬五郎が戻って来た。 「降られちゃったね」  北尾が気の毒そうに言った。 「駅からここまでの間ですよ。大したことはない」  岩瀬はタオルを出して雨に濡《ぬ》れた服を拭《ぬぐ》った。 「で、どうだった」  下町が尋《たず》ねる。 「うまく行きました。折原《おりはら》という奴《やつ》には貸しがあるもんですから」  岩瀬は以前保守党の政治家の秘書をしていたことがあり、折原というのは当時の同僚《どうりよう》なのである。 「こっちのことは表に出ないだろうね。岩さんのことだからそつはなかろうけど」 「ええ、大丈夫です。室川社長の家は、やはり良い子がいるならお手伝いが欲しいと言ってるそうです」 「そうか、そいつは上出来だ。じゃあ、あとは月村さんのところへ崎山和子を行かせればいいだけか」 「ええ、そういうことです」  岩瀬はひと息つくと眉《まゆ》を寄せて下町を見た。 「しかし、所長も物好きですねえ。なんだって、あんなそば屋の子に、こういう大事な筋を使っちゃうんですか。勿体《もつたい》ないですよ」  何日もかけ、下町は崎山和子が自然な形で鷺の宮の室川家へ入りこめるように、パイプをつなげてやったのである。 「そりゃ岩さん、それが僕らの仕事だからさ。依頼人は室川家へ入り込むコネを探してくれと言って来ているんだ。僕らはそのコネを調査して依頼人に教えてやるだけさ」 「やるだけって、やるだけじゃないじゃないですか。ないコネを作って与えちゃうんです。ちょっとやりすぎだと思いますけどね」  岩瀬は現職議員の秘書という大事なパイプをこんなことに使われて、ちょっと釈然《しやくぜん》としないような様子であった。 「たしかに僕は手を出しすぎているかも知れないね」  下町は四人の部下を眺めまわして言った。 「調査マンとしては、こんなことではいけないのかも知れない。でもね、みんな。ここは下町だよ。両国じゃないか。僕はこんな土地を自分の根城に選んだ。山の手のブルジョア相手とは、それなりに違った道を歩まねばならんだろうが、そのほうが自分に合ってると思ったからなんだ。調べて金を取るだけが僕の仕事じゃないんじゃないかと思ったんだよ。金持相手の探偵社なら、中華そば屋の女の子の依頼なんて、はじめから受けはしないだろうさ。でも僕は受けた。そういう弱い者の味方になってやろうときめていたからさ。仮りに室川家に何十のコネクションがあったとしても、あの子の手の届かないものでは何の役にも立たないだろう。そうじゃないかな。依頼人は役に立てようと必死で僕らに仕事をたのんだ。それに対して、彼女の役に立たないコネを教えてやって、僕らは満足していられるだろうか。ことに今回は同じ町内の人間だよ。センチメンタルだと言われようがどうしようが、この下町《したまち》探偵局はそういう探偵社でありたいと思っているのさ。……もっとも、相手によるけれどもね」  下町は珍しく熱っぽく喋《しやべ》った。 「そうですね」  北尾が遠慮がちに言う。 「わたしは新米だけど、三楽の子みたいな相手には、できるだけのことをしてあげたいと思ってますよ。調査マンのルールから言えば外れるかも知れないけど、考えて見れば、いくらしてやりたいと思ったって、わたしらのできることは多寡《たか》が知れてますしね」 「そりゃそうだ」  岩瀬が苦笑した。 「俺たちの力じゃ多寡が知れてるよ、まったく」  岩瀬は風間健一の肩を叩いた。 「貧乏人は貧乏人同士って奴ですよ」  北尾がうれしそうに言う。 「とにかくこれで一件|落着《らくちやく》ってわけだ」  下町は無表情で言い、 「あとは崎山和子に月村さんのところへ相談に行けと言うだけだが、誰が彼女にそう言ってくれる……」  とみんなに尋ねた。  崎山和子が区会議員のところへ、どこか良い家庭のお手伝いになりたいのだと相談に行けば、あとはトントン拍子に室川家へつながる仕掛けになっていた。月村のところへは、もうさる筋からお手伝い探しの話が行っている筈であった。 「俺……じゃだめですか」  無口な風間健一が言った。 「君か」  下町は睨《にら》むように風間を見た。外はドシャ降りだった。 「あの子、一生懸命みたいだから」  好感を持った、と風間は言いたげである。 「いいだろう。まかせるよ」  下町はなぜかちょっと不安そうな顔で承知した。     14  両国駅を少し詳しく説明すると、三つの部分からなっていると言える。ひとつは秋葉原《あきはばら》、浅草橋、そして隅田川を渡って両国、錦糸町と、千葉方面へ続く国電総武線の駅。  もうひとつは、それに隣接する国鉄総武本線の両国駅である。歴史的なことは省《はぶ》いて現在の状態を言うと、総武本線両国駅はすでになかば忘れられようとしていて、日に何本かの列車がそこから房総《ぼうそう》方面へ出ているだけだ。今では両国始発の列車があることを知らない人も多い。  三番目は貨物線で、第二の線と同じように隅田川にぶつかって終点になっている。貨物線のあたりには、日通をはじめ幾つかの運輸会社の建物があり、冷凍用の倉庫などもたち並んでいるし、都の中央|卸売《おろしうり》市場江東市場というのが大きな面積を占《し》めている。  そういうわけで、両国駅の隅田川寄りはおおむね閑散としており、夜になるとひどく淋《さび》しい。  背のひょろ高い風間健一が、がっちりした体つきの女の子と、そのひとけのない辺りをゆっくりと歩いている。 「そういうわけだから、君はあすにでも月村先生のところへ行くといい。身の上相談のような恰好《かつこう》で行けば、鷺宮の室川家へは一直線につながっている筈だ」 「すみません。じゃあ、所長さんにこれを渡してください」  崎山和子は白い角封筒を差し出した。 「何、これ」  風間が受取って訊く。和子は満更《まんざら》でもない様子で、ちらりと風間を見た。ハンサムなのである。 「調査料です。所長さんが言っていた通りの金額が入ってます」  風間は、そう、と言ってあっさりそれをポケットへしまった。 「俺《おれ》、聞きたいんだ」 「何を……」 「もう少し歩いていいかい」 「ええ。お店も閉めたし、それにもう三楽ともお別れだから」 「なぜ室川重信の家へ入りたがったの」  雨あがりで、風が秋のように爽やかだった。 「所長さん、あたしのことをいろいろ調べてたみたい」 「そうらしいね。でも俺は知らない」 「多分、いずれ判っちゃうだろうから」  和子は風間のほうへ少し体を寄せるようにして、小さな声で言った。二人は小さなホテルの裏から、川ぞいのコンクリートの道へ入って行く。昔なら土手の上と言いたいところだが、今は護岸堤防が高々と続いていて、背の高い風間にさえ水面は見えなかった。 「あたし、三楽へ来る前、豊橋《とよはし》の紡績《ぼうせき》工場にいたの」 「そこの生まれじゃないのか」 「そう。中学を出てすぐその工場へ行ったの。働きながら高卒の資格が取れるのよ」 「へえ……」 「そこでずっと働いてるうち、あたしの家の者は死んだりして、ちりぢりになっちゃったの」 「故郷《くに》、どこ」 「そのうち工場も閉鎖になっちゃって」 「どこなの、故郷は」 「それで東京へ来て……ずっとあの工場で働いてるつもりだったんだけどね。家、貧乏だったからね。工場もだめになっちゃうし、お父ちゃんやお母ちゃんも死んじゃったし、あたしなんかもう、すること、なんにもなくなっちゃったんだもの」 「泣いてるね。なぜ……」 「あたしのすること、もうひとつしかないのよ」 「故郷、どこだよ」  風間が憤《おこ》ったように立ちどまって叫んだ。和子は頬《ほお》を濡《ぬ》らしながらゆっくりと歩き続けている。 「あたしだって、誰かに喋っちゃいたいのよぉ」  和子は突然振り返って喚《わめ》くように言った。 「故郷……君の故郷、まさか」 「そうよ。九州よ。室川の工場があるとこよ」  月が雲に隠れ、すぐに出た。湿った強い風が二人の髪《かみ》をなびかせた。  室川の会社は九州に工場を持っていた。その工場から排出された大量の有機水銀で、多くの悲劇が生まれた。  風間と和子は五歩ほど間隔を置いて、じっと睨《にら》み合《あ》っているように見えた。 「それで社長の室川の家へお手伝いに入り込もうと言うんだな」 「悪い……。何よ、あんな奴。お父ちゃんもお母ちゃんも、叔父さんも、みんなあいつのおかげで酷《ひど》い目《め》に遭《あ》って死んだのよ。だのにあいつは、東京でいい家に住んで、汚れない魚を食べて、一家|揃《そろ》ってしあわせに暮らしてるのよ。あたしは、親たちがされたようにしてやる。一生懸命あの一家に尽して、いつまでもいいお手伝いさんで住みついてやる。そして、お茶や、味噌汁や……」 「黙れ」  風間が呶鳴《どな》った。和子は静かになり、じっと風に吹かれていた。 「俺、君を抱きたい」  風間はそう言うと、ゆっくり和子に近付いた。和子は体を堅《かた》くしたようだったが、背の高い風間に包まれるように抱かれてキスされた。  和子はその夜、三楽へ帰らなかったらしい。  和子が室川家へ行く前の晩、三楽夫婦の両親がいる千歳町で盆踊り大会があり、下町はとなりの婆さんと一緒に見物に行った。世話好きの三楽のおかみさんが与えた浴衣を着て、崎山和子が踊りの輪の中にいたそうである。  第二話 秋の鶯《うぐいす》     1  暑さ寒さも彼岸まで。月並《つきなみ》だが全くその通りの言葉で、秋分の日を過ぎると、両国界隈《りようごくかいわい》からもすっかり夏の気配が消え、日中でも日陰《ひかげ》に入るとひんやりとするくらいであった。  その日、明け方からちょっと強い風が吹いて、そのせいか雲ひとつなく綺麗《きれい》に晴れあがった朝になった。  下町誠一《しもまちせいいち》が木の階段を鳴らして二階のオフィスへあがって行くと、下町《したまち》探偵局の職員の内で一番|年嵩《としかさ》の北尾貞吉が、あけ放した窓から上半身を乗り出すようにして上のほうを眺めていた。 「どうしたんです、北さん」  上半分に素通しのガラスをはめ、そこに「下町探偵局」と黒く書いたドアをうしろ手で閉めながら、下町が不審《ふしん》げな表情で尋《たず》ねた。 「あ、お早うございます」  北尾が窓から首を引っ込めて挨拶《あいさつ》した。 「お早うございます」  それにかぶせるように肥《ふと》った茂木正子が言う。 「お早うスス」  と新聞を読みながら言うのは岩瀬五郎。 「…………」  お早う、とも、オスともつかぬ声を出したのが、一番若い風間健一である。 「お早う」  下町は自分の古ぼけた樫《かし》の木のデスクへ行く。 「空を見ていたんです」  北尾が椅子《いす》に坐《すわ》りながら言った。みんなの前に熱いお茶の入った湯呑《ゆのみ》が配られている。いつもの通り、正子がいれたのだ。 「所長はまだ外へ出ていないから知らないのよ」  正子が言う。 「え……何かあったのか」  下町が窓のほうを見て腰を浮しかけると、四人はなんとなく笑顔になった。 「わざわざごらんになることもないですよ」  北尾が制止するように左手を振《ふ》って言った。 「綺麗な空なんです。ただそれだけですよ」  なんだ、と言うように下町は椅子に坐り直し、あらためて四人の顔を眺めまわした。 「それだけ……」 「ええ」  北尾が頷《うなず》く。 「雲ひとつない……本当にひとつもないんです。底抜けの秋晴れって奴《やつ》です」  下町は湯呑をとりあげた。 「どうも上天気らしいとは思ってた」 「天高くって言いますからね。秋空は高く澄《す》むことにきまってますが、何か今日の空は高すぎるみたいで、つい昔を思い出してしまいます」 「そうね」  正子が相槌《あいづち》を打った。 「けさの空は子供の頃の空だわ」 「あの頃はあっちこっちに原っぱがあった」  正子も北尾も東京生まれである。 「原っぱか」  下町も懐《なつ》かしそうな顔になった。 「随分久し振りに聞く言葉だ」 「とんぼがたくさんいましたなあ」  北尾はそう言い、思い出を振り捨てるように首を横に振ると、 「今じゃ、たまに空が澄んでるといちいち昔を思い出さなきゃならない」  とぼやいた。  下町は小さな傷だらけの樫の木のデスクの抽斗《ひきだし》をあけて、紙きれを一枚取り出した。 「北さん」 「はい」  北尾は素早く席を立って下町のデスクの横に立つ。 「これ、あなたにやってもらいたいんですがね」 「はい」  北尾は一番年長だが、調査マンとしては一番経験が浅い。単独で仕事を担当したことはまだほとんどないくらいだから、少し緊張している。 「大して面倒なことじゃありません」 「はい」  下町は岩瀬五郎のほうを見て苦笑した。 「そうかしこまられると困っちゃうな」  岩瀬が新聞からちらりと顔をあげ、下町に微笑《びしよう》を送る。 「ゆうべ浅草橋の磯村さんと飲んだんだ」  北尾に言うのではなく、岩瀬のほうへ向けて喋っているようだった。 「ほう」  岩瀬は新聞に目を戻して答える。 「そうしたらこの仕事がひとつころがり込んで来てね」 「何です」  岩瀬が訊《き》く。 「銀座のホステスなんだよ。ホステスでも手堅《てがた》いのがいるよ」  岩瀬は新聞を畳《たた》み、湯呑に手を伸ばす。 「ホステスの堅いのか……」  幾分からかい気味につぶやいている。 「客の一人がその女を口説《くど》いている。面倒を見ると言うんだな。条件は悪くないらしい。女のほうでも乗り気らしいからね。いずれは店を出させる、くらいのことは言われてるんだろう。別にそれを疑っているわけでもないそうだが、言い寄って来る数多い男たちの中からその男を選ぶからには、長続きしたいと言うんだ」 「かなり美人らしいですね」  北尾が言う。 「そりゃもう大した美人ですよ」  下町が深く頷いて太鼓判《たいこばん》を押した。 「奥さんのほかに女がいるのは嫌だし、過去にちょいちょい同じことをしているようでは安心できない」  岩瀬がニヤニヤしながら言った。 「へえ、岩さんよく判《わか》るね」 「以前、それと似た仕事をしたことがあるから」 「なんだ」  下町は苦笑したが、北尾は目を剥《む》いていた。 「つまり、二号が旦那のほうを調べるわけですか」 「そうなるね。結婚の調査みたいなもんですよ」 「図々しい」  北尾は舌打ちをする。 「美人は得よ」  正子も面白くなさそうだった。 「これがその男の名刺の写しです。その会社へは毎月請求書を送っているから、間違《まちが》いはないそうです。結婚調査の要領でやってください。ただし、依頼人が二号さんになる人間だという点を忘れないように」 「はい」  北尾は渡されたメモを見ながら軽く頭をさげ、 「それにしても、考えてみると頼りないものですな。もしその女性が調べもせずにウンと言えば、名刺に書いてあることしか相手のことは判らないわけですからね」  と感心しながら席へ戻った。     2 「風間」 「…………」  風間健一は下町に呼ばれ、黙って下町をみつめた。今のやりとりをまるで聞いていなかったような顔だ。 「新潟《にいがた》の町長さんの件はどうなってる」 「これから書きます」  報告書を書くというのだ。 「じゃおわったのか」 「ええ」  すると岩瀬が笑顔で尋ねた。 「健ちゃん、あれは面白そうな仕事だったな」  風間は肩をすくめた。 「町長の息子《むすこ》が東京へ出て来て何か得体の知れないことをやって暮らしている。勘当《かんどう》みたいに追い出した父親の町長は気になって、そっと様子を知りたがっている。いいおやじだと思うが、倅《せがれ》のほうはどうだい」 「危《ヤバ》いですよ」  風間は苦笑を浮べた。 「危い……」 「埋立地にできた団地にいるんだけど、あそこに露店《ろてん》が出てる」 「団地に露店……。それは禁じられてる筈だぜ。団地の中にはじめからちゃんと商店街がついてるだろう」 「あの辺じゃ規則通りには行かないから。おでんとか焼鳥とかの屋台が出て、しまいにそれがずらりと並んじゃう。団地の人たちは屋台とか露店と言わずに、出店《でみせ》って呼んでるんです」  風間は抑揚《よくよう》のない、ボソボソした喋り方で続けた。 「端《は》ぎれ屋、古本屋、八百屋に魚屋」 「そんなのまで……」  正子は驚いている。 「うん。町長の息子はそれをやってる」 「何の出店だ」  下町が訊く。 「店じゃないんです。出店の親睦会《しんぼくかい》です」 「親睦会……」 「出店の並んでる通りは団地のものですからね。朝と夕方と二回、掃除してるんです」 「息子はその掃除をしてるのか」 「ええ、はじめのうちはね。ところがそのうち、出店を縄張《シマ》にしようとして、テキ屋が入って来たんですよ。出店から掃除代集めて、払わない奴は追い出しちゃう」 「あんな団地でもそういう事があるのかなあ」  岩瀬が嘆くように言った。 「団地の自治会がそのテキ屋を追っ払おうとしたんです。出店やってんの、みんな団地の人ですからね」 「ほう」 「自治会は警察へ持ち込んだけど、管轄外《かんかつがい》だそうで断わられちゃって、住宅局、民生局、港湾局《こうわんきよく》なんてところタライまわしされてるうち、あの息子が代表みたいなことになっちゃったらしくて、都会議員が仲に入ってテキ屋と手打ち」 「そりゃまた何とも現実的な解決だな」  岩瀬が笑った。 「息子はテキ屋と仲良くなって、親睦会の会長になっちゃって、テキ屋の若い衆《し》が朝晩掃除してる」  下町も北尾も正子もはじけたように笑った。 「つまり、そのテキ屋から縄張を預かったわけか」 「ええ。都のほうも、もうその出店は潰《つぶ》せない。だって、商店街よりずっと安いから、団地の人はみんな頼りにしちゃってる。荒物屋や文房具屋まで揃《そろ》っちゃってる。ないのは病院だけ」 「屋台の病院なんてあるもんか」  岩瀬が笑いこけた。 「だから見て見ぬふり」 「じゃ、何が危い……」  下町が真顔で尋《たず》ねた。 「息子は図に乗っちゃってる。テキ屋なんかと付合って、いっぱしの気になって、博奕好《ばくちず》き集めて花札をはじめたんですよ」 「そいつは……」  下町は呆《あき》れた。 「それはすぐ手入れを食《く》っちゃった」 「当たり前だ」 「でもつかまらなかった。窓から飛び出して」 「窓から……」  一階でやったんです。つかまったのはその部屋の奴だけ。それで、今は五階でやってる。一階に見張りを置いて、雨どいに電線をからませて非常ベルつき。花屋のおやじが乾分《こぶん》みたいになっていて、私服《デカ》が来たらお花の講習会です。安全だから毎日やってて、景気はいいみたいだけど、客にプロが増えてだんだん大ごとになっちゃってる。あのままだと、警察よりヤーさまに狙《ねら》われそうです」 「あの息子、幾つだっけ」 「二十九」 「やれやれ」  下町はうんざりしたような顔になった。 「報告書を見たら、新潟のおやじさんは寝られなくなりそうだな」  岩瀬が頷いた。     3 「けさは何かおにぎやかだねえ」  ガタガタと下駄の音をさせて、となりの印刷屋の婆さんがあがって来た。このオフィスの大家《おおや》なのだ。 「やあ、いらっしゃい」  下町は愛想《あいそ》よく迎えた。 「裏にいたら笑い声が聞こえたもんでね」  婆さんは下町のデスクの前にある折《お》り畳《たた》み式の椅子に腰をおろした。 「お茶をいれますわ」  正子が席を立つ。 「濃《こ》い奴じゃなきゃ駄目《だめ》よ」 「はいはい」  正子は苦笑しながら、裏側の窓際に置いてあるポットのほうへ行った。裏の窓からは両国駅が見える。 「じゃ、わたしは出掛けます」  北尾はそう言い、 「ごゆっくり」  と婆さんに挨拶《あいさつ》して階段をおりて行った。風間は報告書を書きはじめ、岩瀬はのんびり煙草《たばこ》を吸いながら東京都の区分地図帳をいじっている。 「あの人、もとは社長さんなんですってね」  婆さんは、出て行った北尾のことを言う。 「ええ」 「どうして探偵さんになったのかしら」 「会社が潰《つぶ》れたからですよ」 「会社って、メリヤス屋さんでしょ」 「ええ」 「メリヤス屋は大変だからね。この辺にもちっちゃな会社がいっぱいあるわ。それにしても、ほかにもいろんな口があったろうにね」 「仕事の口のことですか」 「そうよ。どうして探偵なんか選んだんだろう」  婆さんは首をひねる。 「はいどうぞ。粗茶ですけど」  正子が婆さんの前にお茶碗《ちやわん》を置く。 「はいどうも有難う。粗茶は判ってますけどね」  正子は笑って席へ戻る。 「熱《あち》……」  婆さんは茶碗に口をつけ、そう言ってデスクへ戻した。 「探偵さんて、刑事と同じようなことをするんでしょう。言っちゃ悪いけど、北さんじゃねえ、凄味《すごみ》ないわよ」 「刑事とは全然違いますよ」 「おや、そうなの」 「ええ。だから、北さんみたいな人が案外合ってるんです。目立たないし」  婆さんは大げさにのけぞって笑った。 「たしかに目立たないわ」  下町は失敗したというように唇《くちびる》を舐《な》めた。 「僕らの仕事では、案外警察の出身者は少ないんですよ。警察というのはちゃんと権限を持った上で仕事をしますけど、僕らにはそんなもの何もないですからね。だから警察出の人はつい以前の癖を出して、あまりうまく行かないんです。そっと調べなきゃならないんです」 「そうか、私立探偵じゃ、ちょっと来いなんて言うわけに行かないものね。でも、やっぱり警察とはうまくやらなきゃいけないんでしょう。張り合ったりしたら免許を取り消されちゃう」  下町は溜息《ためいき》をついた。 「お婆ちゃん、それテレビの見すぎですよ」 「あらそう……」 「外国映画にはよくそんな場面が出て来るけど、日本の探偵は警察の免許なんか受けてないんです」 「じゃ、どこから免許をもらうの」 「ありません」 「あら、ないの」 「ええ。アメリカには私立探偵法などというような法律がちゃんとあるそうですが、日本には何もないんです」 「野放しなの」 「犬みたいに言わないでくださいよ」  下町は鼻白《はなじろ》んだようである。 「でも、それじゃどこのお役所とも関係なしなのね」  すると岩瀬が口をはさんだ。 「税務署」  婆さんは余計なことを言うなというように岩瀬を睨《にら》む。 「それほど儲《もう》けてもいないくせに」 「まったく」  下町が頷く。 「こないださ、あんまり退屈なもんだから、電話帳でここの電話を探したのよ」 「なんでまた……」 「退屈だから。店子《たなこ》の電話が電話帳に載ってれば安心じゃないの」  この建物は一階の道路に面した側を酒屋が倉庫に借りていて、残りを下町が借りている。そして家賃はみなこの小柄なとなりの婆さんの小遣《こづか》いになるそうなのだ。 「なるほど」  下町は苦笑した。 「いいご身分ですねえ、お婆ちゃんは」  正子が真顔で言った。 「そうよ、あたしはこう見えても楽隠居。嫁《よめ》だってビシッと押えて文句を言わせないんだから」  たしかに勝気な婆さんである。 「ちゃんと電話帳に出てたでしょう」  下町が言うと、婆さんは鼻で笑った。 「何言ってんの、出てやしないわよ、どこにも」 「出てますよ」 「嘘《うそ》」  すると正子が厚い電話帳を机の上へ乗せ、そこは商売柄、あっという間に必要なページを開いて下町のデスクへ寄越した。 「ほら、ここにありますよ」 「やだ、興信所のとこじゃないの。あたし、探偵社を探したのよ」 「興信所とひとまとめに載ってるんです」 「そうか、興信所も探偵社もおんなじなのね。飲み屋とバーがおんなじみたいなもんだ……」 「便宜上一括してあるんで、興信所と探偵社は少し違いますよ」 「あらそうなの」 「興信所というのは、もともとは信用調査をする所です。人事録などという厚い本を作って売ったりしてるんです。だから、興信所だって結婚の調査なんかをやりますけど、調べ方が直《じか》でしてね。ポンと相手にぶつかって行っちゃうわけです。そこへ行くと、探偵って言うのは、相手に判らないようにからめ手からやるんです」 「知らなかったわ」 「だから目立つ人は駄目なんです」  下町は北尾の為にそれが言いたかったらしい。 「なるほどね。それじゃ北さんは適任だわよ」  下町が骨を折って説明したのに、婆さんの結論は少しも変らなかった。 「あんたも時にはやるの……」  今度は正子に鉾先《ほこさき》を向ける。 「茂木君はデスク・ワークです」 「女じゃ駄目……」 「駄目ってことはないんですが、人の印象だけで好き嫌いが入り易いですからね」 「あ……それじゃあたしは落第だわ」  婆さんはケタケタと笑った。 「男でも、酒と賭けごとの大嫌いな調査マンがいたんですが、その男に調べさせたら、或る人物がひどい点をつけられちゃったんです。酒は飲む博奕《ばくち》は打つ、とね。若いサラリーマンだったんですが、毎晩|麻雀《マージヤン》で遅くなったり、時にはベロベロに酔っ払ったりするのは、そう珍しいことじゃないでしょう。ところが自分が嫌いなもんだから」 「そりゃそうね。酒も博奕も全然、なんて男は話が判らなくて面白くもなんともない。死んだうちの人なんかも、結構浮気してたらしいけど、あたしはそんなにふしあわせじゃなかった」  婆さんは昔を懐かしむようにオフィスの中を見まわした。以前はそこに住んでいた筈だから、亡夫の思い出がしみついているのかも知れなかった。  婆さんは茶碗をとりあげ、うまそうにお茶を飲んだ。 「中村園ね」  正子に訊く。 「ええ」 「だと思った」  表通りにそういう名のお茶の老舗《しにせ》があるのだ。婆さんは残りを飲みほすと、 「さて、鶯《うぐいす》の世話でもしましょうか」  と立ちあがり、 「お邪魔さま」  と言い残して階段をおりて行った。 「鶯の世話に電話帳調べか。全くいいご身分だな。年を取ったらああなりたいもんだね」  下町は誰に言うともなく言った。 「鶯というと春の感じだな」  岩瀬が坐ったまま頭を低くして、窓の外のよく晴れた秋空を眺めた。 「秋の鶯って、どうしてるのかしら」  正子が言う。 「となりへ行って見て来いよ」  岩瀬が答える。 「籠の中のじゃなくて、山にいる奴のこと」 「今頃どうしてるかなあ」  岩瀬はそう言って自分で笑った。 「あら、お客さんだわ」  ガラガラと下で戸のあく音がした。 「誰かしら」  正子は足音を聞きわけようと首を傾《かし》げたが、いやにゆっくりした足音で、心当たりはないようであった。     4 「あのう……」  入口のところでその客が言った。七十を過ぎているように見える。 「どうぞ、こちらへ」  正子が席を立って、そのみすぼらしい老人の手をとらんばかりに案内した。案内すると言っても狭いオフィスだが、下町のデスクの横に古びた木の衝立《ついたて》があって、そのかげに応接用のソファーが二つ、小さなテーブルをはさんで向き合っていた。 「どうぞ」  下町が衝立のかげへ入って言った。 「はい」  老人はかしこまって坐った。 「茂木君、お茶を」 「はい」  正子は素早く裏の窓際へ行った。 「調査のご相談にあがったのですが」 「 承《うけたまわ》 ります」  下町が落着いた態度で言った。 「どんな調査でしょう」 「尋ね人なのです」 「ほほう。どういうご関係の方で……」 「いえ、わたしではないのです」 「と、言いますと……」 「実はわたしは森下町《もりしたちよう》に住んでおりまして、……森下と言っても、以前は高橋《たかばし》と呼んだあたりでして」 「はあ」 「朝晩通りますので、なんとなくここに探偵社があるのを知っていましたから伺ったようなわけで」  正子がお茶を運んで来る。 「恐れ入ります」  老人が深々と頭をさげる。  席へ戻った正子に、岩瀬がささやいている。 「窓口の客か」  正子が頷《うなず》く。「窓口の客」とは、要するに飛込みの客のことである。  わりと珍しいのだ。正子は息を詰《つ》めるようにして、老人の話を聞こうとしている。 「それで、わたしの住んでおります家のとなりのアパートに、いつの頃からか、わたしよりだいぶ上の老人が一人住みついておりましてね」 「ほう。するともう、だいぶお年ですね」 「ええ、八十二とかになるそうで」 「八十二ですか」 「それがあなた、その、嫌《いや》な言葉なのですが、例の寝たきり老人という奴になってしまいましてね。まあわたしなども似《に》たようなものですから、区の民生委員さんにお願いして、福祉《ふくし》電話などをつけてもらったりしましたんです」 「福祉電話……」 「はい。七十歳以上の一人暮らしの老人には、お上《かみ》が無料《タダ》で電話をつけてくれるのです。寝たきりですと六十からでもつけてくれますよ。ところがその人は……鈴木さんという名前ですけれど、その鈴木さんは身寄りがなくて。  ずっと前は失業対策事業の公園の清掃なんかをしておりましたんですが、脳溢血《のういつけつ》で倒れましてね。見ておられんのですよ。失業対策事業をやっておりますと、健康保険に入れられてしまうんですね。いっそのこと、生活保護にかかればいいんですが、健康保険を持ってるもんで、倒れたから病院へ入ると言っても、疾病手当金が出るのは二か月も先のことでしたし、病院は十日目ごとに請求をしますしね。結局保険証を担保にしたような形でしのいだんですが、そりゃ酷《ひど》いもので」  老人は涙ぐんでいる。下町は返事のしようがなくて黙って頷いていた。 「わたしと鈴木さんはアカの他人です。でも、隣りに住んだ縁がありますからね。もっと若い人が世話をしてあげればいいんですが、今の若い人は薄情で」  老人はそう言って少しあわてたようだった。 「いえ、若い人が悪いんじゃないので、こういう世の中になってしまったんで、一人きりで長生きする人間のほうが馬鹿なんです。でも、鈴木さんなどはもう、自分で死ぬ気力さえなくなってしまっています。  それに、これは民生委員さんに聞いた話ですが、普通福祉電話は基本料金と月に六十通話まで無料なのだそうですが、それをつけると、たいてい六十通話以上使ってしまうものなのだそうです。一人きりで淋《さび》しいですからね。遠くに家族がいたりすれば、毎晩のように長距離をかけてしまうのですよ。でもお上は超過分も黙って払ってくれているそうです。いけないんですが、老人に払えるわけはなし、やめろと叱るわけにも行かないそうです。ところが、あの鈴木さんに限っては、一度も使ってないそうです」 「身寄りが一人もいないということなのですか」 「民生委員さんはそう言っています。でも、わたしには判るんです。鈴木さんは、意地を張ってるみたいです。きっとどこかに、ちゃんと暮らしてる家族がいると思うんです。もうすっかりボケてしまって、わたしが心配するのは、意地を張って痩《や》せ我慢《がまん》を続けている内に、本当に家族の居場所なんかを忘れてしまうんじゃないかと」 「なるほど」 「あの……わたし、足りないかも知れませんけれど、働いていまして、お金を貯めたのです。なんとかこのお金で、鈴木さんの家族を探してあげて欲しいんですが」  老人はそう言って、わりと上等な、白い角封筒をテーブルの上に置いた。 「老人が一人きりで生きていることは、とても辛いことなんです。長く生きた分だけ、思い出がたくさんありますからね」  下町は頷き、正子へ合図を送った。 「失礼ですが、あなたのお名前と住所を」  正子はメモ用紙とボールペンを下町に渡す。 「はいはい」  下町は老人から聞いて自分でメモをするつもりだったらしいが、老人は手を出してメモ用紙とボールペンを受取り、左手をテーブルと平行に置いて、さらさらと達筆で書いた。 「これは見事な字だ」  下町がメモをとりあげて感心する。 「それだけが取柄《とりえ》でして。この会社で宛名書《あてなか》きをさせてもらっております」  金の入った角封筒を示す。裏返すと、四谷ギフト株式会社という名が印刷してあった。 「ギフト会社へお勤めですか」 「冠婚葬祭《かんこんそうさい》の贈答品を専門にしている会社です。それはダイレクト・メール用の封筒で、わたしは主に葬式のある家の宛名を書いています」  DMでも、その種のものは達筆の毛書に限るだろう。 「これはお持ち帰りください」  下町はその角封筒を老人へ差し出した。 「調べて戴けないのですか」 「いや、お引受けします。うちでは料金は成功|報酬《ほうしゆう》ということになっておりますから」 「ほう、さようで……。では、お預かりして置きますから、どうかよろしくお願いいたします。何せあなた、鈴木さんのことについては何も知りませんので」  老人は詫《わ》びるように言った。 「それで……」  下町は老人が書いたメモにちらりと目を落した。 「館野《たての》さんは、その鈴木さんのいらっしゃるアパートのおとなりでお暮らしなのですね」 「はい」 「ご家族とご一緒で……」 「はい」 「お元気そうですし、お仕事をお持ちで結構ですね」 「お陰さまで。でも、わたしももうこんな年になってしまいましたし」 「お幾つですか」 「もう七十五になります。だから鈴木さんのことが、とても他人ごととは思えないのですよ。家族の厄介者《やつかいもの》です」 「そんなことはないでしょう」 「まあひとつ、なるべく早くにお願いいたします」  館野という老人は、また深々と頭をさげて立ちあがり、正子や岩瀬たちにも、 「お邪魔致しました」  と挨拶《あいさつ》して、危《あや》うげな足どりで階段をおりて行った。 「成功報酬か」  岩瀬は老人の足音が下の廊下へ移るとそう言った。 「ほかにいい手があったかい」  下町がムッとしたように訊いた。 「ないですな」  岩瀬は椅子《いす》にもたれ、両手を頭のうしろで組んだ。 「金を取るわけには行かないな」  つぶやくように言う。 「ただばたらき」  風間が低い声で言い、すぐ立ちあがった。 「報告書、あとで書きます」  つかつかと下町のそばへ行き、引ったくるように館野老人のメモを取りあげた。 「俺《おれ》やります」  下町は黙って風間をみつめた。 「あたしも手伝うわ」  正子が風間のそばへ行った。 「二人ともどうしたんだ」  岩瀬が呆《あき》れている。 「あたしだって下町探偵局の職員よ。たまには外へ出してもらいたいわ」  憤《おこ》ったように言う正子の目から、ひと粒すっと頬《ほお》に流れた。 「君はいい。風間がやる」  下町がそう言うと、正子はヒステリックな声になった。 「じゃいいです。だいたい、そんなになるまで生きてるのが悪いんだわ」 「何を憤ってるんだい」  岩瀬がびっくりして訊いた。 「年寄りなんて嫌い。可哀《かわい》そうで、放っとけなくて、我儘《わがまま》で面倒臭《めんどうくさ》くて、まわりの者を駄目《だめ》にしちゃうのよ」 「そう言うなよ。君のおじいさんだってもういい年だろうが」 「何よそれくらいの字。あたしにだって書けるわ」  お世辞にも美人とは言えない器量《きりよう》だが、正子もびっくりするくらい美しい筆跡の持主なのである。 「何だか妙な日だ。よく晴れてるって言うのに」  岩瀬はぼやくように言った。     5  岩瀬も出て行ったオフィスで、正子が下町にたしなめられている。 「何も君が息巻くことはないんだよ」 「だって……」 「嫌な客が来た。それだけでいいじゃないか。老人の問題を抱えた客が来るたびさっきのようにヒステリーを起してちゃきりがないぞ」 「すみません」  正子が脹《ふく》れ面《つら》で頭をさげた。 「でも、可哀そうで」 「可哀そうなだけなら憤らなくてもいい筈だよ。あの剣幕《けんまく》で、岩さんはきっと君の家のことを何か勘付いたぜ」 「そうかしら」 「勘がいいんだ、あの男は」 「別に知られたってかまわないけど」 「そりゃそうだろう。何も君はやましいことをしてるわけじゃない。それどころか、今どき珍しい美談だよ」  正子は肩をすくめる。 「まあそんなことはいい」  下町は煙草に火をつけた。 「で、ついでだから聞くけど、この頃おじいさんはどうなんだい」 「どうって……」 「元気なのかい」  正子は首を左右に振った。 「病気か」 「風邪を引いたんです」 「急に朝晩冷え込むようになったからな」 「ええ。何しろ齢《とし》だもんですから、風邪なんか引くと治りにくいんです」 「大丈夫か、一人きりにしといて」 「仕方ないです」  正子はしょんぼりと答える。祖父と二人の暮らしになって、もう随分たつのだ。 「まったく悪い客が来たもんだ。窓口の客ってのはろくなのがないな」  すると正子はあらたまった様子で下町に礼を言った。 「引受けて戴いて有難うございました」 「君が礼を言うことはない」  それっきり、二人は黙り込んだ。両国駅のアナウンスが聞こえて来る。  正子が二十八のときのことらしいから、今から十五年ほど前になる。その頃正子は信用金庫に勤めていて、まだオールド・ミスになるときまったわけではなかった。おじいちゃんに可愛《かわい》がられて育ったそうで、その祖父がひと旗あげようと企んだらしい。区役所を定年退職後、息子の家に世話になってぶらぶらしているのが辛かったのだろう。西新井《にしあらい》のほうにあった家はその祖父の名義になっており、資金を作る為、息子夫婦、つまり正子の両親に内緒で抵当に入れてしまった。抵当に取ったのが正子の勤めていた信用金庫で、その段取りに正子が一枚|噛《か》んでいた。正子にすれば、可愛がってもらったおじいちゃんに、恩返《おんがえ》しをするようなつもりだったに違いない。  ところがそれが詐欺《さぎ》。おじいちゃんはあっさり一杯食わされてしまった。一家は豊かではなく、たちまち家を失うことになった。  兄は大工で葛西橋《かさいばし》のほうで何とかやっていたが、自動車の修理工だった弟は、そのドサクサをきっかけにするように急にグレて、今は刑務所にいる。兄の妻はしっかり者で、落ち目の実家へ夫を近づけたがらない。  すべての罪は正子にあるということで、正子は木賃アパートへ追い込まれた両親のそばへ寄りつけない有様となり、平井の四丁目で一人暮らしをはじめた。おじいちゃんは失踪《しつそう》して行くかた知れず。家を失った責任もあり、グレた弟にせびられもして、正子はつい職場の金に手をつけた。  一年たらずでそれがバレ、物堅《ものがた》い娘だっただけに、そのことが必要以上に大きな負い目になって、以来転々と職場を移り歩くことになった。  何年かして、ヨレヨレになったおじいちゃんが帰って来た。沖縄で肉体労働をしていたそうだが、六十過ぎての無理が祟《たた》ったのだろう。あちこち病気だらけになっていた。  事情が事情だけに、こころよく迎える者は一人もいない。正子の両親が住む堀切《ほりきり》の木賃アパートは四畳半ひと間で、それが内職の材料で足の踏み場もないと来ている。  結局、共犯のよしみで正子がおじいちゃんの面倒を見ることになり、日々|衰《おとろ》えて行く命をひとつ、正子が守り養うことになった。  この五年、正子が安月給の下町探偵局に腰を落着けているのは、どうやらその詐欺の相手が近くにいるかららしい。商売が探偵だから、ひょっとすると尻《し》っ尾《ぽ》を掴《つか》むことができるかも知れないと思っているようだ。  ともあれ、館野という老人が持って来た話で、すっかり正子が昂《たかぶ》り、混乱してしまったのはそういう事情があるからだった。     6 「さて」  下町は腕《うで》時計を見て腰をあげた。 「出掛けるよ」 「どちらへ」 「依頼人と約束している」  下町はデスクの抽斗《ひきだし》に入れてあった、古い文庫本を一冊上着のポケットへ押し込んで外へ出て行った。  ガラガラ、と下町が出て行く音がしたすぐあと、また裏からとなりの婆さんの下駄《げた》の音が聞こえて来た。勝手口がとなりの印刷屋のと向き合っているのだ。 「あら、誰《だれ》もいないの」  婆さんはがっかりしたように言った。 「ええ、みんな出払っちゃって」 「岩さんに、みんな鶯を見たがってるって聞いたもんだから」 「あら、それが……」  婆さんは鳥籠を右手で吊しあげて見せ、正子がうれしそうに近寄って行った。 「わあ、鶯だわ」 「そりゃそうよ、鶯だもの」  婆さんは正子の示した柄にもない稚《おさな》さに苦笑を浮べた。 「綺麗《きれい》」 「可愛いでしょ」  婆さんも満更《まんざら》ではなさそうに、鳥籠を風間の机の上に置いた。 「いつか言ってたじゃないの。あんたの堀切の叔父さんて人も、以前鶯を飼ってたそうじゃない」 「ええ、あたしがまだちっちゃい頃」 「あんたのちっちゃい時って、どんなだっただろう」  婆さんは正子の大きな尻《しり》をのぞき込むようにした。 「いやねえ、こんな肥《ふと》ってなかったわ」 「そうかねえ」  婆さんはふざけているようだ。 「久しぶりに鶯を見せてもらったわ。父が飼ってたのと……いえ、堀切の叔父さんが飼ってたのとおんなじ色」 「そりゃ鶯はみな鶯色してるわよ」  婆さんは笑った。 「お茶でもいれましょうか」 「さっきいただいたわよ」  婆さんは小憎《こにくた》らしく言うが、根は好人物なのだ。窓際の椅子に坐って、ひょいと外の通りを眺めながら言う。 「弟さん元気……」 「え……」 「遠洋漁業の船に乗ってるとかいう人よ。干鱈《ひだら》なんかをよく送ってくれるって言ってるじゃない、いつも」 「あ……ええ、元気でやってるそうです。ときどき端書《はがき》が来ます」 「でもおかしなもんだねえ、干鱈なんてさ。遠洋漁業の船って、南のほうで鮪《まぐろ》なんかを獲《と》るんでしょう」 「鱈も獲れるそうです」  正子は鶯の籠の目に人差指を当てて、 「チュッ、チュッ。おいで」  と優しい声で言った。何かにつけて身内の噂《うわさ》をするので、となりの婆さんまで正子の兄弟や親類のことを憶えてしまっているのだ。 「ねえあんた」 「はい」 「あんたもうお嫁《よめ》に行く気ないの」  正子はウフフ、と笑った。 「亭主はないよりあったほうがいいもんだよ」 「そうですか」 「あたしは家つき娘でね、うちの人は養子だった。養子に来る男なんかろくな奴じゃないと思ってさ、はじめのうちは随分|我儘《わがまま》を言ったり威張ったりしてたけど、やっぱり男は男よ。連れ添《そ》ってるうちに頼るようになっちゃった。もっとも、戦争があったしね。あたし達の時代は男も値打があったよ。今はこんな平和でさ、平和な時は男がだらしなくなるのね。いくじのない男が増えちゃったけど、一度兵隊へ行った男ってのは、何と言ってもこう、肚《はら》が据《す》わってたもんよ。言って見れば、切ったはったの修羅場《しゆらば》をくぐり抜けて来たみたいなもんだからね。休暇で帰って来て、二人きりになった時なんか、何かこう、おっぱいの先がカチーッとなっちゃってさ。どんな無理なことでも聞いてやりたくなっちゃうの」 「やだ、お婆ちゃんたら」 「だってほんとだもの。うちのはね、海軍だったんだよ。電報が来てさ、横須賀《よこすか》へ飛んでったことがあるのよ。あの時の気持って、忘れられない。足が地についてないのよ、とうとう横須賀まで」 「面会にいらしたんですね」 「そうよ。向こうから往復の時間だけ勿体《もつたい》ないじゃない。まる二日、横須賀の宿屋に泊ったの。安っぽい宿屋でさ、あたしたちみたいのがいっぱいいるのよ。夜になると、あっちからもこっちからも、変な声が聞こえて来るのよ。何しろとなりとは襖《ふすま》一枚だからね。でも、非常時でしょ、恥ずかしいも何もないわよ、これっきり会えないかも知れないんですものね」  婆さんは天井のあたりを眺めまわして言った。 「ほんとにそれっきりになっちゃったけど」 「お船で……」 「軍艦よ。黒くて勇ましい恰好《かつこう》してるの。それと一緒に沈んじゃったわ」 「まあ」 「三十何年も前の話よ」  婆さんは軽く笑った。 「生き残った人もいるのよ。でも、生きてればもうヨボヨボね」 「お婆ちゃんて、ほんとにおしあわせな方ね」  正子はそう言ってまた鳥籠に指を当てた。秋の鶯はホーとも啼《な》かなかった。     7  下町は国電で市川へ向かっていた。空いていたので座席に腰をおろしたが、それがシルバー・シートであることは知っていたようだ。  すぐポケットから文庫本を取り出す。岩波の三つ星で、表紙がもう手ずれして薄黒くなっている。  フレイザーの金枝篇《きんしへん》の第三巻目である。それは全部で五巻あり、五巻ともデスクの抽斗に突っ込んであって、電車に乗るような時、適当にその中の一冊を取り出してポケットへ入れるのであった。  昔はかなりの読書家で、いろいろな本を読んだが、近頃は金枝篇だけだ。どこから読んでも面白いし、どこでやめてもかまわないところがある本だった。何度同じくだりを読んでも、それなりに得るものがあって、本はもうこれだけで充分だと思っているらしい。  第四十二章、オシーリスと太陽。  下町は適当に開いて読みはじめている。仕事とも日常の生活とも関係のない遠い世界。それでいて、どこか肌に触れて来る。  オシーリスはしばしば太陽神と説明されており……。そんな風にはじまって、死と復活の問題に移って行く。……そうだ、死とはいったい何なのだ。死がなければ、人間は限りなく老いて行くのだろうか。死のない老いとはどういうものだろう。  だが、そうした下町の瞑想《めいそう》的な時間もすぐ破られる。錦糸町で少し混み、平井でまた乗客が増えた。尾行のプロだけに、読書に熱中しているように見えて、その実あたりの様子はよく判っている。  新小岩《しんこいわ》から乗った見るからに田舎臭《いなかくさ》いアベックが、すぐ近くの吊革に掴《つか》まって映画の筋を喋《しやべ》っている。  下町は急に本を閉じ、席を立った。薄茶の一重《ひとえ》を着た、腰の曲った老婆を見たからである。そこはシルバー・シートだった。 「おばあさん」  下町は声をかけてそのほうへ近寄った。 「あいたあいた」  映画の筋を喋っていた若い男が飛びつくように下町のいた席へ坐り、 「すいません」  と、となりの客に言って強引に連れの女も割り込ませた。 「そいでさ、あの俳優、なんたっけ、ほら」 「どれよ」 「途中で車から降りた奴だよ」 「ああ、あれ。かっこいい男」 「そうそう。あいつが主演したの、見た……」  下町は仕方なく、呼び寄せた老婆の肩に手を置いて吊革につかまった。 「すいません、今あいたんですけどね」  アベックがちらりと上を見て、また喋りはじめる。 「もうすぐあけてくれるでしょうから、待ってましょう」  アベックは聞こえないふりをしている。 「便利になりましたよ、国電も。老人専用の席ができたんですからね」  老婆はオドオドしている。 「あたしは足が達者で」 「でも、若い人よりは弱いでしょう」  下町は聞こえよがしに言う。 「いえ、なかなかどうして」  すると、女のほうが堪りかねたように、男の耳もとへ口を寄せて何かささやいた。男も引っこみがつかなくなったようで、 「何だよ、嫌味《いやみ》ったらしい」  と、とがった声を下町にぶつける。  すると、その一人おいた所に坐っていた中年男がすっと立って、 「お婆ちゃん、どうぞ」  と言った。 「あ、すいません」  下町は礼を言い、老婆を坐《すわ》らせた。 「シルバー・シートを知らんのですかね」  立った男がアベックのほうを見ずに言う。 「PRが徹底してないんでしょう。シルバー・シートは老人の席なんだけど」  アベックはキョロキョロして、やっとシルバー・シートの表示に気付いたようだった。 「何だい、シルバー・シートって。いやらしい」  若い男は下町を睨《にら》みつけていた。  市川でその電車を降りた時、油断していた下町は、その男にいきなり横っ面を張られた。アベックは、手をつないで階段を駆けおりて行った。     8  下町《しもまち》誠一がとなりの婆さんに説明してやったことは本当だった。興信所と探偵社は電話帳に一括して載せられていて、知らない者は同じだと思い勝ちだが、少し性格が違《ちが》う。  興信所は商取引の際の信用調査が業務の中核で、個人的な内容の調査もやることはやるが、探偵社のやりかたに比較すると、ずっと隠密《おんみつ》性が少ない。  それはたとえば、結婚の為の身上調査にしても、興信所の場合は基本が飽《あ》く迄《まで》も信用の調査と言うことで、資産家同士の閨閥《けいばつ》形成にひと役買うような感じが強いから、調べ方もかなり直接的で、いきなり縁談の相手の家へ乗り込んで行くようなやり方をする。  調べられるほうも、子弟の結婚とは言え、一種の取引めいたところがあるから、どうぞ調べてたしかめてくださいと言ったように、調べさせる先方を嫌な奴とも思わないし、結納《ゆいのう》などと同じように挙式への手続きのひとつだと考える傾向が強い。  そこへ行くと探偵社は個人的な調査業務を主体としているから、調査していることを相手に知らせるようなことはまずないと言っていい。だから、資産家の家庭に離婚問題などが起って興信所へ持ち込まれたりすると、その具体的な調査は探偵社へ廻され、探偵社が下請けの形で浮気の証拠を堅《かた》めたりすることになる。尾行してラブ・ホテルのとなりの部屋から盗聴したり録音したりするような仕事は、たいてい探偵社の調査マンの仕事なのだ。  風間健一も、下町《したまち》探偵局という探偵社の一員だから、その寝たきり老人のことを調べるのに、ほとんど無意識のようにして周辺から調べはじめた。 「鈴木さん……いたかな、そんな人」  だが、同じアパートの住人がそんなことを言う始末だった。 「ああ、十三号室のおじいさんでしょう」  さすがに噂好きのおかみさん連中は鈴木老人のことを少しは知っていたが、それだって老人の存在に気付いていると言った程度で、 「そう言えばあたし、そのおじいさんの顔をまだ見たことがないわ」  などという者もいた。 「あんたお役所の人。そんな風に見えないわねえ」  アパートのおかみさん連中は、鈴木老人が調査を受けているということなどには大した反応を示さず、若くて背が高くて、よく見るとハンサムな風間のほうに関心を向けて来た。  窓の外が洗濯物で満艦飾《まんかんしよく》になった二階の六畳の部屋で、肥《ふと》ったのや痩《や》せたのや、それぞれ貧乏のまん中で居直ってしまったような不敵な面魂《つらだましい》をしたおかみさんが五人、派手《はで》な絵柄のついた、押すだけのポットをテーブルのまん中におっ立てて、お茶を飲みながらくっ喋《ちやべ》っているところへ風間が顔を出してしまった。  畳の上にビニール製の花茣蓙《はなござ》まがいの敷物が敷いてあり、テーブルも赤い格子の入ったビニールのテーブルクロスで掩《おお》ってある。 「あんたとこの親戚《しんせき》の子によく似てるじゃない。いつだったか血まみれでころがり込んで来た子よ」 「ああ、あれは駄目《だめ》よ。とうとう本式のやくざになっちゃった」 「どっかの組へ入ったの」 「そう」 「どこの組」 「知らない。浅草のほうだって」  そんな会話が一方で進んでいて、入口に近いほうの二人が風間に質問を浴《あび》せかけている。 「ほんとに役所の人なの」 「ねえ、あんた幾つ」  風間は逃げそびれて狭い入口に突っ立っている。 「役所の者じゃないんですよ」  部屋にいる人数の倍も履物《はきもの》が置いてあり、風間の足は辛うじてその隙間に割り込んでいる感じだ。 「なんであのおじいさんのことを聞いて廻ってるの」 「独身でしょう、まだ」  どういうわけかこの辺の主婦は二人一緒に別なことを喋るらしい。 「そう、チョンガ」  風間はそれを逆用して、答え易いほうの質問に返事をしている。 「だと思った。独り者は見れば判るのよ」 「鈴木さんのことを知ってる者《もん》なんてここらにはいないわよ」 「そうですか」  今度は両方一遍に扱っている。 「ねえ、そんなとこに突っ立ってないで坐んなさいよ」 「お茶でも飲んでって」  風間にはどれがその家の主婦なのかよく判らない。 「大《おつ》きなアパートですね、ここは」  風間はそう言いながら下駄やサンダルをどけてうしろ向きに腰をおろし、上半身をひねっておかみさんたちに言った。 「あんた、ほかに褒《ほ》めようがないんだろう」  親戚の子の話をしていたのが、いきなり大声でそう言い、ケタケタと笑った。 「ここはいいわよ。引っ越しといで。可愛《かわい》がってやるから」  みんなでキャーキャー笑う。 「部屋、あいてるの」  風間は調子を合わせはじめた。 「あら、ほんとに来る気……」 「家賃、安そうだもの」 「そりゃそうよ。こんだけ汚いとね」  またゲラゲラ笑う。みんなひどく屈託《くつたく》がないのだ。 「いくら……」 「当ててみな。当たりっこないから」 「六畳ばかりなの……」 「四畳半も三畳もあるわよ」  威張っている。正方形で中庭がある木造二階だてのアパートだ。流しとトイレは共同。但《ただ》しガスは部屋ごとについている。 「あんた、森かおりって言う歌手を知ってる……」 「森かおり……聞いたことないな」 「昔の人よ。恋の渡り鳥、なんて歌を唄《うた》った歌手よ」 「なんだ、あれか。新人だと思っちゃった」  随分昔の流行歌手の名だ。風間などはまだこんなちっちゃい時分のスター歌手である。 「このアパート、森かおりのアパートよ」 「へえ、そうなの」 「もういいお婆ちゃんになっちゃったけど、近くに住んでるわ」  彼女たちは昔の流行歌手が大家《おおや》であることをいくらか誇りにしているようだ。 「あ、それで森荘と言うのか」  アパートの入口に森荘という古びた札がかけてあった。 「そう。すぐそこにもう一軒あるのよ。そっちはかおり荘」 「ね、おかしいでしょ」  痩《や》せたのが真面目腐《まじめくさ》って言った。 「もりそう、に、かおりそう。はじめっからおんぼろアパートになるのが判ってたみたいな名前」  風間ははじけたように笑った。     9  風間は方針を変えた。  調査対象が寝たきり老人だから、その身もとを探り出すのにことさら隠密性を保つ必要はなかろうと判断したのだ。 「実は俺、人に頼まれて十三号室の鈴木さんのことを聞いてまわってるんだ」  近所のことなら、今朝のお菜《かず》のことまで知っていそうな頼もしいおかみさんが五人、時間を持て余したような恰好《かつこう》で顔を揃《そろ》えているのである。ざっくばらんにやったほうが余程手っとり早かろうと言うものだ。 「どうしてよ。あんな生きてんだか死んでんだか判んないようなおじいさんを」  五人が珍しく沈黙し、中の一人が代表になって訊《き》く。残りはじっと風間をみつめている。一瞬風がやんだような感じだった。  が、それも本当に一瞬のこと。 「あのおじいさん、何かやったの」 「ばかね。寝たきりで悪いことなんかどうやってするのよ」 「あんた、ひょっとしたら遺産相続か何かじゃないの。あのおじいさんに何千万て言うお金がころがり込んじゃったりさ。どうしよう……」 「そんなわけないわよ、ねえ」 「いったいあんた何者。何でそんな人のお節介《せつかい》をするのよ」  いっせいにけたたましい声で言い合う。 「探偵だよ、俺《おれ》」  風間は思い切って本当のことを言った。たまにはそう言うやり方をしてもいいと自分に言いきかせながらだったが。 「探偵……」  素《す》っ頓狂《とんきよう》な声がして、またピタリと風がやんだ。三秒か四秒、そのまんま。 「ねえ、ねえ、ねえ」  一人が風間へにじり寄って行く。それに釣《つ》られたように、全員が這うようにして入口のほうへひとかたまりになった。 「あんた、探偵……」 「うん」 「本当……」 「本当さ」 「証明書みたいの持ってないの」 「あるよ」  風間はちょっとモタモタした感じで、ポケットから探偵社の身分証を取り出して見せた。  と、言っても下町探偵局のではない。探偵社の調査マンは、常に何通りかの名刺と、本物でない身分証を持ち歩いている。必要に応じて適当に使いわけるのだ。特に探偵社の職員であることを証明する書類は念入りに作ってあって、探偵であることはバレても、本当の所属先は判らないように心懸けているのだ。モタモタしたのは、必要なのを手探りで選り分けていたせいだ。 「キャー」  年甲斐《としがい》もなく、一人が若手歌手の親衛隊みたいな声をあげてそれを眺める。 「見て、本物よ」 「どれどれ」 「見せてよ、あたしにも」  奪い合いになっている。 「探偵ってはじめて見たわ」 「さすがねえ。変装してるから全然判らなかった」  風間は別に変装なんかしてはいない。でも折角感心してくれているのに、おかみさんたちの夢をぶちこわす必要もない。その身分証の探偵社の所在地は、千代田区|霞《かすみ》が関《せき》になっていて、きちっと髪《かみ》をなでつけた、ネクタイ姿の風間の顔写真が貼《は》ってある。  調査マンにはそういう小道具がつきものだ。中には黒い表紙に白い文字で、「東京都警察管区別地図帳」などと印刷した奴を持って歩く者もいる。普通の書店に売っている地図帳なのだが、場合によってはそれが警察手帳同様の効果を発揮することがある。それを手に持って何気ない様子で聞き込みをやると、八割がた私服警官だと思い込まれてしまうそうだ。 「鈴木さんという人は、本当に身寄りがないのかね」  風間が少し言葉つきを変えている。おかみさんたちは黙って首を傾《かし》げた。充分に敬意を払っている顔だった。 「あの……」  肥ってごつい顔をしたおかみさんが、妙に可愛らしい声で言った。 「おとなりの松本荘ってアパートの二階にいる館野さんて人……あの人親戚みたいね」  顔は風間に向けているくせに、仲間に言うような言い方をした。 「よく来てるわね」  同意するのが二人ほどいた。  だが、その館野という人物こそ、寝たきりの鈴木老人の行末を案じて、下町探偵局に調査を依頼して来た本人なのである。 「館野さんのことはもう調べたんですよ」 「じゃ、判んないわ。ケース・ワーカーの大山さんに聞いたら判ると思うけど」 「大山さんね」 「そう。クリスチャンなのよ。糞真面目《くそまじめ》な人」 「あら、大山さんはクリスチャンなの。だってお母さんのお葬式、お寺でやったそうよ」 「お母さんはクリスチャンじゃなかったんでしょうよ」 「変だわよ」 「うちの実家は浄土宗《じようどしゆう》だけど、お父ちゃんのうちは違うのよ。あたしが先死んだら、うちのお父ちゃんは何宗のお葬式をする気かしら」 「全然しなかったりして」 「やだ、ほったらかすって言うの……」 「お葬式はするわよ。でも泣くかなあ」 「泣かない。あんたとこのお父ちゃんなんかとお酒飲んで大騒ぎするくらいがオチよ」 「うちもそうだなあ、きっと。でも子供は泣くわよね」 「そりゃそうよ」 「でも、身寄りの人をみつけてどうするのかしら」 「そりゃきまってるじゃないの。引き取らせるのよねえ」  おかみさんたちの会話には独特のルールがあるらしくて、すぐ脱線するかわりに必ず一度は元の筋道に戻るようだった。     10  夕方。  両国三丁目の通りを、丸っこい男が歩いて行く。ひとえの和服の着丈《きたけ》がやや短か目で、黒い鼻緒《はなお》の下駄をはいている。丸く突き出した腹へ兵子帯《へこおび》をゆるめに結んで、髪は丸刈りの少し伸びた奴。歩くたび裾《すそ》から綿のすててこがちらちらして、姿勢は幾分反り気味。左手にまっ黒な、鞄《かばん》というより袋と呼んだほうが判り易い布製《ぬのせい》のをぶらさげて、背は大して高くなく、見かけはのんびり歩いているようでその実意外に足早な男である。  ガラガラ、ピシャンと酒屋の倉庫の横の格子戸をあけたてして、勝手知った様子でガタガタと床を鳴らして下町探偵局へあがって行く。  腰から上がガラスばりのドアをあけてオフィスへ入る。 「こんにちは……なんちゃって」  そう言ってちょっと照れたように見まわす。下町に茂木正子に風間に北尾に岩瀬。全員|揃《そろ》っている。 「こんばんは」  言い直す。 「どっちかな、この時間は」  ちょっとかすれ気味の声だが、声の先っぽがかすれていて根元のほうは艶《つや》があるというややこしい声だ。 「あ、大多喜《おおたき》さん、いらっしゃい」  迎える全員の顔に微笑《びしよう》が泛《うか》んだ。名は大多喜|悠吉《ゆうきち》。町会の世話役である。年は四十五か六。町内の古い人の間では悠さんで通っている。 「どうぞどうぞ」  正子がうれしそうに椅子をすすめた。 「値上げなんですよ」  悠さんは下町のデスクの前の椅子《いす》に腰をおろしながら言った。 「何のです」 「すいません。町会費の奴が値上りしちゃうんです」 「ほう」 「個人のも少しあがるんですけど、それより事務所がねえ。法人って言うんですか……おたくなんかには悪くって」  たしかに下町探偵局も法人になっている。 「しょうがないですよ、きまりなら」 「そう言ってくださると有難いんですけど、やんなっちゃいますね、こういう時は」 「大多喜さんはいつも損な役廻りばっかりで、お気の毒ですよ」  下町は慰めるように言った。  ガタガタガタ……と下で急にこまやかな足音がはじまった。 「あ、いけねえ」  悠さんは頭に手を置いた。足音でオフィスへあがって来るのが誰か、全員もう判っているのだ。 「悠さん、何よ」  となりの印刷屋の婆さんである。 「どうもすいません」 「姿が見えたからうちへ来るんだとばっかり思って待ってたら、先にこんな所へ引っかかっちゃって」 「お宅はここの次」  正子が椅子をもうひとつ出して来て悠さんのとなりに置き、お茶をいれに行った。 「このごろちっとも姿を見せなかったけど、いそがしいの……」 「ご冗談《じようだん》でしょう。今どき下駄屋がいそがしいわけがない」  悠さんの家は履物屋《はきものや》をやっている。 「こないだの鰻《うなぎ》、おいしかった……」 「やだな、もう秋のさなかですよ。あれは土用《どよう》の丑《うし》の日の出来事」 「おいしかったかって訊《き》いてるの」 「そりゃ、戴いた物はおいしいにきまってるけど……まずかったって言う訳に行かないでしょう。でもやっぱり小型のほうが」 「小型って、泥鰌《どじよう》のこと……」 「そう。大型は高くて。なんだかタクシーみたいな言い方になっちゃったな」 「じゃ今度は小型にするわ。そのうちご馳走したげる。ここの家賃が入ったら」  下町のほうをちらりと見て婆さんが言った。 「また割り勘でご馳走……」 「人聞きの悪いこと言わないでよ。いつあたしがそんなことしたの」 「水天宮《すいてんぐう》へ行ったとき」 「ああ、あれ」  婆さんは思い当たったらしく、笑って誤魔化《ごまか》した。 「そうそう、大多喜さんなら憶《おぼ》えているでしょうね」  下町が言った。 「何のことです」 「森かおりと言う歌手がいたでしょう」 「ええいましたよ。恋の渡り鳥でしょう。あれはね、下町出身の歌手なんですよ。森下町のほうの染物屋さんのお嬢《じよう》さんだったんです」  さすがに詳《くわ》しかった。 「あたしも憶えてるわよ。あれは本名が中山って言うの」  すると風間が笑いながら口をはさんだ。 「中山ふでさんですよね」  婆さんは風間を睨《にら》むように見た。 「平仮名で、ふで」  風間はニヤニヤし続けている。 「ふで、って名前じゃ悪いの」 「悪くはないけど、芸名にはならないみたいだな」  悠さんが笑う。 「そう、中山ふで、って言うのか」 「あたしだって、西尾やへ、って名よ」 「やへ……」 「今なら、やえ、って書くとこなんだろうけど、旧仮名づかいだからね、こう見えたって」 「なるほど」 「あたしたちの頃はそういう名前がはやった時代なのよ」 「でも、森かおりはもっとずっと若いでしょう」 「悪かったわね、あたしが年寄りで」  風間は閉口して口をつぐんだ。若い男を婆さんはみな敵みたいに思っているらしい。昔の男といちいちひきくらべるからだ。     11 「なぜこういうところへ、むかしむかしのナツメロさんが、出て来なくちゃいけないんです……」  悠さんが言った。下町はもっともだと言うように頷《うなず》いた。 「森かおりさんはアパートを経営していらっしゃるんですね」  婆さんがびっくりしたように言う。 「あら、そうなの」 「二軒も持っているそうですよ」  岩瀬が夕刊をガサガサさせて畳み返しながら口をはさんだ。 「一軒は森荘、もう一軒はかおり荘だって」  婆さんは首を傾《かし》げた。 「変な名を付けたもんね。雨が漏《も》りそうみたいじゃない」  悠さんが威勢よく笑った。 「かおりそうと来ちゃ、プーンと匂いますね。一番古いのは倒れそうだったりして」 「川合さんが持ってるアパートだと川合荘」 「かわいそう。それいい」  婆さんが悠さんと下町を順にこわい顔で睨んだ。 「何よ、所長まで一緒になっちゃって」  下町は首をすくめた。正子と北尾が顔を見合せて笑っている。 「でも感心よ。ちゃんと引退したあとのことを考えてたわけね」 「あら、だって」  正子が不服そうに言った。 「何がさ」 「大きな染物屋さんのお嬢さんだったんでしょう」  悠さんが訂正する。 「そう大きいってほどじゃなかった」 「でも、名の通ったお店だったんでしょう」 「そうね、まあ」 「土地もあったんでしょうし、そこへ持って来て一時はスターだったんだし、アパートくらい建てられるわよねえ」  となりにいた岩瀬に同意を求めている。 「そりゃそうだ。マンションじゃないのがおかしいくらいさ」 「当時はまだ、マンションなんて」  悠さんは森かおりの肩を持ちたいようだった。 「そうよ。森かおりは心がけがいいのよ。だから老後のことをちゃんと考えていたんだわ」  婆さんも森かおり派《は》らしい。 「いくら心がけがよくても、とても老後のことにまで手が廻らないのが普通《ふつう》の人生よ。そういうことができるのは、ごく一部の恵まれた人」 「まああたしなんかはうまくやってるほうだわね」  珍しく婆さんが譲歩した。 「そうですよ。鶯《うぐいす》の世話なんかしてればいいんですもの。年を取ってからそういう生活ができる人って、なかなかいませんわよ」  正子がしんみりと言った。下町は無意識に頬《ほお》を撫《な》でていた。昼間、電車の中で老人をシルバー・シートに坐らせようとしたばかりに、その席に頑張《がんば》っていた若い男にひっぱたかれてしまったのだ。 「老人にとっては生きにくい世の中だなあ」  下町がつぶやいた。 「でも、元気にやってるのもいるわよ」  婆さんが打ち消すように言う。 「あたしの知った人だけどね、年寄り仲間の面倒を見ながら、一人で頑張ってる人がいるわ」 「あ、白河町《しらかわちよう》の……」  悠さんが頷いた。 「そう。アパートを建てて、年を取っても人の世話にならずに生きてるのも偉いけど、野口のおばあちゃんが何と言ったって一番|偉《えら》いわよ」 「どういう人です」  下町が訊《き》いた。 「もとは木場《きば》で材木問屋をしてた家なんだけど、左前になっちゃって、ご亭主は商売がえをしたんだけど、その人も先に逝《い》っちゃってね。また正子さんには恵まれてるんだって叱られちゃうかも知れないけど、いい家《うち》はいい家の人なのよ。だから年金とか貯金とかもあって、一人きりになっても結構やって行けるわけだけど、今じゃその家が老人ホームみたいになっちゃってね。朝早くから、あっちこっちの年寄りが集まって来るのよ。野口のおばあちゃんは、そういう年寄りたちに朝ご飯を振舞ってるの」 「朝ご飯を……」  正子が怪訝《けげん》な表情になった。 「そう。だって近頃はどこも若い人中心でしょう。朝ご飯だって、パンだの牛乳だのサラダだの、そういうご飯になっちゃってるんだもの。年寄りには辛《つら》いのよ。みんな孫と一緒にニコニコ笑って食べたりしてるけど、ほんとうは、何て味気ないご飯になっちゃったんだろうって、心の中じゃ泣いてるわよ。焼海苔《やきのり》、卵《たまご》、小鯵《こあじ》の干物《ひもの》、おみおつけ……。ふっくらと粒の立ったあったかいご飯でそういうのを食べていたいんだわ」 「野口さんて人は、そういう食事を毎朝……」 「そう。一人増え二人増え、今じゃ淋《さび》しがってる年寄りが、毎日十人くらいも野口のおばあちゃんの所へ、順ぐりに通ってるのよ」 「順ぐりに」 「そう。だって、毎日みんなで押しかけたら、いくら野口のおばあちゃんだって堪らないものね。だからみんなで譲り合って、順ぐり順ぐりに」 「やだわ」  正子がつぶやいた。 「何がいやなのよ」  婆さんがきつい声で言った。 「いい話だと思わないの」 「ごめんなさい。そうじゃないんです。あたし、今まで気が付かなかったんです」 「だから何がよ」 「うちのおじいちゃんもおんなじなんでしょうね」 「そりゃそうよ。パンと牛乳の朝ご飯なんて。……あら、正子さんもおじいさんにそんなの食べさしてたの」  正子は悲しそうに頷《うなず》いた。 「だめよ、ちゃんとしてあげなきゃ」 「そうしますわ」  正子は力のない声で言った。 「そうだ、風間」  下町が呼んだ。 「はい、判《わか》りました。明日、その野口のおばあちゃんのところへ行って見ます」  風間は察しよく先まわりして答えた。 「あら何のこと」  婆さんが好奇心をのぞかせた。 「野口さんのところへ行ったら判るかも知れないことがあるんです」  下町は婆さんをみつめて言った。     12  鈴木老人の調査に関しては秘密を保つ必要がない。  風間が下した判断を下町も諒承していた。むしろ一種の公開捜査にしたほうがいいと考えているのだ。となりの婆さんや大多喜悠吉はみな本所深川《ほんじよふかがわ》に顔の広い人物だから、この際あの老人の話を聞いてもらったほうが、かえって好都合であった。 「実はいま、うちで或る老人の身もとを調べているんですよ」  下町が言うと、婆さんは椅子《いす》の下へ両手をまわして、ガタンと椅子ごと体を下町のほうへ近づけた。 「老人って、どこの人……」 「森下のほうのアパートにいるんですけどね。寝たきりなんです」 「病気で……」 「ええ」 「やだ、一人きりなの」 「そうなんです」 「かわいそうに」 「鈴木さんと言うらしいんだけど、その人の身寄りを探してるんですよ。聞いたことありませんか」  下町は婆さんと悠さんの顔を半々に見ながら言った。 「さあ」  二人とも首を傾《かし》げる。 「風間を担当にしてあるんですが、どうも難物らしくて困ってるんです。何しろもう三度も四度もここが破裂しちゃったもんだから」  下町はこめかみを指さして見せた。 「脳溢血《のういつけつ》……」 「そうなんですよ。だもんで、記憶もすっかり怪しくなってるし、喋るのも不自由で」 「所長」  婆さんがきつい目で睨《にら》みつけた。 「え……」 「そういうのに手を抜くなんて、ひどいわよ」 「別に……」 「抜いてる」  婆さんはきっぱりと言って風間のほうを見た。 「そういう大事なことをあんな若い子にまかせちゃって」 「そりゃ違いますよ」  北尾が珍しく強い口調でたしなめるように言った。 「風間君は若くてもわたしなんかよりずっと腕《うで》のいい調査マンです。さっきわたしもここで聞いてましたけど、今日一日であれだけのことを調べ出して来るなんて、ちょっと出来ないことです」  婆さんは首をすくめ、悠さんの体のかげへかくれるようにした。 「助けて、叱られちゃった」  北尾は苦笑する。 「別におばあちゃんを叱ったわけじゃありませんけど」  下町が真面目《まじめ》な顔で言う。 「風間は自分からこの件を扱うと言って、張り切ってやってるんですよ。そういう老人は放っとけませんからね」 「ほんと……案外いいとこあるわね、あの子」 「ええ」  ご当人の風間が答えたのでみんな笑い、それでまたなごやかになった。 「で、どうだったの……調べに行って」  婆さんが風間に訊《き》いた。 「アパートの住人はその老人のことについて、ほとんど何も知らないんです。それで、大家《おおや》の森かおり、つまり中山ふでさんのところへ行ったんだけど、そこでもはっきりしないんです。と、言うのは、中山さんは歌手でしょう。はっきりいつから引退したというわけじゃなくて、年をとって落ち目になってからも、ドサ廻りなんかをかなり続けていたそうで、だからアパートの管理はずっと人にまかせてたんだそうです。鈴木さんはあそこに住んでもう随分長いんで、はっきりしたことは中山さんにも判らなくなってるんですよ。前に管理してた人はもう亡《な》くなっちゃってますしね。ああいうアパートは書類なんかも適当で、その管理人も不動産屋まかせみたいだったらしいんです」 「でも、区役所へ行けば……」 「行きましたよ。記録なしです。住民票なんかないんですね。でも、失業対策事業なんかで食べてたそうだから、いったいどうなってるんだろうと思って、しつっこく調べて見たんです。そうしたら仕掛けが判ったんですが、何代か前の民生委員だった人が面倒見てやったようなんですよ」 「面倒見るって……」 「つまりその、鈴木さんは鈴木さんじゃないらしいんで」 「どういうこと……」 「ちゃんと書類の揃《そろ》ってた人がいたわけですよ。その人が或る時ふっといなくなっちゃったんですね。多分|田舎《いなか》へ帰ったんだろうって言うんですけど、今の鈴木さんは、その居なくなった人の書類をそっくり融通してもらって、それ以来鈴木さんで通っちゃったんです」 「それじゃインチキしたわけじゃないの」 「インチキってばインチキだけど、その時の民生委員の人だって、あの老人をその方法以外ではどうにもしてあげられなかったんじゃありませんかねえ」  悠さんが唸《うな》った。 「寝たきり幽霊か。そりゃ困ったなあ」  腕組みをする。腹が出ているからかなり高々とした腕組みだ。 「書類上は鈴木|厚三郎《こうざぶろう》って言うんですけどもね。今じゃ本人に訊いても正体が判らない」 「そんなに酷《ひど》いの」 「ええ、もう記憶も滅茶苦茶で、飯を食ったそばから、食ったことを忘れちゃう程なんだから」  婆さんはしゅんとしてしまった。 「いったい幾つなの」 「八十二だって聞いて行ったんだけど、あの分じゃ本当は幾つなんだか」  婆さんは目をとじた。 「この下町の空の下に、まるで世の中からはぐれちゃった人が一人いるわけね」 「俺も今日は考えちゃったな」  風間がしみじみと言った。 「みんながなまじ少しずつ親切ごころを出し合うから、かえっていけないのかも知れないんだ。中山さんだって、その老人のところから家賃は取れないけど黙って置いている。インチキな書類を黙認した民生委員だって、よかれと思ってしたことはたしかなんだし、大山さんというケース・ワーカーなんか、ろくな手当てでもないのに、鈴木さんの下《しも》の世話までしてやってる」  風間は、つと立ちあがると、みんなに背中を向けてしばらく立っていたが、急に荒っぽい声で呶鳴《どな》った。 「あんな糞じじい、みんなで放り出しちまえばいいんだ。そうすりゃ警察が拾って行く。それ以外にもう救いようがねえじゃねえか」  風間はくるりと振り向き、婆さんを睨んだ。 「ええおばあちゃん。もうどうにも救いようがねえんだよ。俺たちはなんにもできねえんだよ」  婆さんは気丈にそれを睨み返した。 「この辺には戦災で焼き殺された人がいっぱいいるんだよ。わりを食うのはいつだって貧乏人だい。今さらそんなことに驚いてて、生きて行けるかってんだ」  そう言って風間と睨めっこを続けてから、急に目をそらし、肩を落した。 「でも、悲しいねえ」  みんな黙っていた。     13 「となりの安アパートに、同じように一人ぼっちの老人がいるんですよ。館野さんと言ってね」  下町は自分に言い聞かせるように喋りはじめた。 「館野さんももう七十五になるけど、まだ元気で、ダイレクト・メールの宛名書《あてなが》きをしている。でも館野さんは鈴木さんに、自分の行末を見ているようなんだ。それでコツコツと貯《た》めた金を持ってここへやって来た。今の内に鈴木さんの家族を探《さが》してやって欲しいってね。あの人も孤独なんだ。本当に孤独になり切らなかったら、そこまで他人の面倒は見切れないだろうね」  風間が静かな声に戻って続けた。 「あのアパートで、館野さんを鈴木さんの親戚《しんせき》のように思い込んでる人たちがいるんですよ。クリスチャンでケース・ワーカーの大山さんとその二人が、朝晩鈴木さんの面倒を見てやっているんです。もしその二人が行かなくなったら、鈴木さんはスーッと死んで行けるんじゃないかなあ」 「健ちゃん」  正子が拗《す》ねたような声で言った。 「それはあんまりだわ。死んだほうがいいって言うの……」  風間は答えなかった。 「あら、もう暗くなった」  婆さんが窓の外を見て言った。 「あたし、帰ります」  正子が大きなハンド・バッグを持って立ちあがった。弁当箱が入っているのだ。 「うちにも年寄りがいるから」 「そうよ。早く帰ってあげなさい」  婆さんが言う。 「それにしても、おばあちゃんはまだまだだねえ」  悠さんが感心したように言って、婆さんをジロジロ眺めまわした。 「当たり前よ。これからお嫁《よめ》に行くんだから」 「これだものなあ」 「それよか、悠さんこそ気をつけなさいよ。飲んだくれちゃあいい加減なところで寝ちゃうんだから」 「お先に失礼します」  正子がそう言って階段をおりかけるのへ、 「あ、わたしも帰ります」  と北尾が言ってあとに続いた。 「それじゃ俺も」  岩瀬も立った。 「風間はちょっと待ってろ」  下町が言った。 「じゃお先に」  岩瀬もおりて行った。 「みんな帰っちゃったけど、どうして俺はここで帰りそびれてるんだろう」  悠さんがぼやくように言う。下町は微笑《びしよう》して片目をつむった。 「なんだ。そういうわけか。自分で自分のことが判らないんじゃ、俺ももうだめかな」 「とぼけて」  婆さんが苦笑した。 「また所長と二人でうさぎ屋へ行く気なんでしょう」  悠さんは首を横に振って指を三本立てた。 「三人……この子を連れてくの」 「所長がそう言ったよ」 「まったく飲み友達ってのは仕様がないねえ。あたしたちには判んない言葉を使うんだから。いつの間に相談をまとめちゃったのよ」 「来た時からきまってるの」  悠さんはそう言って笑った。 「こういう日は酒でも飲んだほうがいいんだよ。なあ、風間」 「ええ」  風間はニコニコしていた。 「ふと秋風の心にしみて、行く当てもなきわが身ながら」  悠さんは謡《うた》うようにそう言ってから、ウー、ワンワンと犬の啼《な》き真似《まね》をした。 「何やってるんだろうね、この人は」  婆さんも立ちあがる。 「あたしも帰るわ」 「老婆のうしろ姿何やら侘《わび》しく」 「大きなお世話よ」 「罵《ののし》り騒ぐさまいと浅間し」 「ばか」 「かりけるからころちんとんしゃん」  ガタガタと下駄の音をさせて婆さんも帰って行った。 「帰っちゃった」  悠さんはほっとしたように言った。 「おばあちゃんが折角ああ言ってくれたんだから、うさぎ屋へ行こう」  下町が言った。 「そう。あのおばあちゃんが言わなきゃ、俺たちうさぎ屋へ行こうかなんて、考えもしなかったもんね」  悠さんはとぼけ続け、風間が窓をしめて廻った。  三人は階段をつながっておりる。外へ出ると下町が戸に鍵《かぎ》をかけた。 「うさぎ屋ってどっちだっけ」  悠さんがふざけて訊いた。 「あっち」  下町が右のほうを指さす。 「あ、そうか。こっちだっけ」  三人は歩き出した。 「あのね、所長」 「なに……」 「何がいい気分だってね、夕方自分|家《ち》の前を素通りして飲み屋へ向かう時の気分てのはないね」  下町はヘヘヘ……と笑った。 「健ちゃん知ってる……」 「何ですか」 「そこの下駄屋《げたや》、俺んちだよ」 「そうですね」 「で、主人の俺が下駄屋の前をツ、ツ、ツ、とこう通り過ぎて。ほら、誰も見てなかったろ。これがもう年季の入ってる証拠。素人《しろうと》はすぐおかみさんに見つかっちゃうからだめなんだ。もし見つかったって、これから町会のご用ですよ、って言えばいいの。うさぎ屋まであとをつけて来るわけはないんだから。もっとも、子供に見つかるとついて来たりしちゃうけどね。そういう時も町会のご用。ご用風を吹かせるって奴」 「それで大多喜さんは町会の役員をやめないんですね」 「そう。椅子《いす》にしがみついてる。役員の椅子にしがみついてんだか、うさぎ屋の椅子にしがみついてんだか、よく判んないけど」  悠さんと下町は気の合う飲み友達なのだ。     14  下町探偵局を出て、悠さんの下駄屋の前を通り過ぎてまっすぐ隅田川に向かって行くと、広い通りへ出た右の角にうさぎ屋がある。  その店をひとことで言えば、大衆酒場という奴である。歩道に立って店に向かうと、右角が焼鳥のコーナーで、店内からの注文だけでなく、外から焼鳥を買いに来た客も相手にすることができる。  三日か四日に一度、掛け違えて裏返しに出てしまう紺地《こんじ》の暖簾《のれん》に、もと白抜きで只今《ただいま》灰色の文字が、うさぎ屋、と読める。  それを左手で払いのけながら、同時に右手をガラス戸にかけて、すいと体を店の中へ入れられるようになれば常連として一人前だ。  下町と悠さんが、すいすいと続けて入って、しんがりの風間はまだ一人前じゃないから、悠さんが払いのけた暖簾をおでこで受けてちょっと遅れる。  とにかく安いのである。飲み物だって、焼酎《しようちゆう》からウイスキーまで、安い酒を厳選してある。たたずまいだって、その昔、戦後のまだ物のない頃、一杯の酎《ちゆう》にありつこうと呑《の》ん兵衛《べえ》どもが行列を作った頃の俤《おもかげ》がそのまんまだ。急がず焦《あせ》らず背伸びせず、無理な金で飲む酒を邪道と心得切った下町人《したまちじん》たちが、他人に言って判ろうが判るまいが、わが町の宝と守り育てて来た気楽な飲み屋の典型がそこにある。  入って右っ側が奥までずっと畳敷きの小間。あとはカウンターばっかりだ。まん中に店員の立つ通路みたいなのがあって、その両脇を細長くカウンターがとりまいている。パチンコ屋の機械を取っ払った奴《やつ》と思えば間違いない。 「やあ、どうも」 「今晩は」  悠さんと下町は、顔馴染《かおなじみ》の先客たちに挨拶《あいさつ》しながら三人並んで陣取った。黙って坐ればいつもの奴で、厚手のコップが黄色っぽい松材のカウンターの上に、カン、カン、カン、と小気味のいい音をたてて三つ並ぶ。注がれる酒は酎。別に店員が気がきくのではなくて、改めて伺いを立てるのがばかばかしくなるくらい、しょっ中来ている顔なのだ。 「本日は煮込みに致しますかな」  悠さんがいよいよ本番と言った顔で、そのくせ誰《だれ》に言うともなく言う。 「煮込み三丁ぉ」  連れにごたごた相談させない所がいい。特に断わらぬ限り、ご一行さま同品目という不文律《ふぶんりつ》があるらしい。 「じゃ、まず」  下町がコップを僅《わず》かに持ちあげると、二人もそれにならい、三人一緒に頭をさげるが、別に躾《しつけ》がよくて一杯やる前に神様にお礼をしているわけではなく、唇《くち》からお出迎えという奴だ。  悠さんは最初のひとくちを飲むと、しばらくじっと動かない。自分の体の中を見ているような目つきだ。 「着いた」  と言ってニッコリする。喉《のど》から胃へ、カッとするのが通り抜けて行くのを全身全霊で味わっていたのだ。まったく、心の底から湧《わ》きあがったような、何とも言えず綺麗《きれい》な笑顔であった。  モツと豆腐《とうふ》の煮込みが来ると、悠さんは唐辛子《とうがらし》をまっかになるほどかけて、 「とんがらしをもっとかけないと毒《どく》だよ」  などと風間に教えている。 「毒だよ、はないぜ」  下町が笑う。 「でも、この辛いのをうんとかけると、なんとなく消毒ずみのような気がするじゃないの」 「やだな」  風間は煮込みの中身をじっと見る。 「平気平気。習うより慣れろってね」  悠さんのからかい方は芸がこまかい。 「でもさ、その爺さん、なんとかしてやりたいね」  悠さんは突然話題を変えたが、 「それにしても、あの森かおりが本名中山ふでだなんて、知らなかったなあ」  と笑う。  寝たきり老人のことが気になっているのだが、体の中からヒューマニズムらしきものが湧いて来て、それを人に見られたかと思ったとたん、照れてかくしてしまうのだ。 「頼むよ、悠さん」  下町が言う。  飲み友達は飲み友達。町内のおつき合いは町内のおつき合いで、言葉もちゃんと使いわけているのだ。 「でも、偉《えら》いね」 「誰……」 「その何とかって言うとなりの人さ」 「館野さんか」 「そう、館野さんさ。ちょっとできないことだよ」 「そうだなあ。俺があの人の立場だったとして、寝たきりの鈴木さんを助ける為になけなしの金をはたく勇気が出るかなあ」  下町が言うと悠さんが感心した。 「そうか、勇気か。うん、そうだ、勇気だよね。やっぱり所長はいいこと言うね。俺、同情だとばかり思ってた。でも、それは勇気なんだよね」  風間がそう言う悠さんに向かって、 「館野さんはお金を持って来たけど、所長は成功|報酬《ほうしゆう》だからって、受取らなかったんですよ」  と教えた。 「やっぱりね。勇気があるんだよ。どうせ儲《もう》からないんだから、一つや二つただばたらきしたって平気なのさ」 「悠さん、からかうなよ」  下町は苦笑していた。  まだ宵《よい》の口《くち》。今にだんだん更けて行けば、そのうち悠さんはきっと、恋の渡り鳥を唄《うた》うはずである。  空には綺麗な丸い月がうかんでいた。     15  昼少し前。大きなハンド・バッグをぶらさげた茂木正子が出勤して来た。無遅刻無欠勤の正子にしては珍しいことだった。 「すみません」  二階へあがってオフィスのドアをあけるなり、そう言って下町《しもまち》に頭をさげた。 「どうだった」  下町は心配そうに尋《たず》ねた。 「肺炎なんです」  正子はバッグをぶらさげて入口のところに立ったまま、力のない声で答えた。今にも壁《かべ》によりかかって泣き出してしまいそうだった。 「大丈夫なのかい。もう歳なんだし」 「なんとか峠《とうげ》は越したそうです」 「それは何よりだが、大変だなあ、君も」  そう言われて、正子は逆に気をとりなおしたようだった。 「仕方ありませんわ、親子ですから」  自分のデスクへ行って、そう答えながら椅子《いす》に腰をおろした。みんな出払っていて、ちょうど下町ひとりだけのところだった。 「お茶、誰がいれたんですか。所長が……」  正子は自分がいなかったのに、いつものようにみんなのデスクに湯呑《ゆのみ》が配られているのに気付いたらしい。 「風間さ」 「まあ、健ちゃんが」 「君の祖父《おじい》さんのような年寄りが肺炎なんかにかかると、危《あぶな》いんじゃないのかい」 「ええ。もうちょっとって言うところだったようです。ぐずぐず鼻風邪《はなかぜ》なんかひいてると思ってたんですけど、悪くなったら急なんですもの、すっかりうろたえちゃって」  正子は改めてほっとしたように溜息《ためいき》をして見せた。 「死神って言うのを見たような気持がしちゃった」 「死神……」  正子は頷《うなず》いた。 「祖父と並んで寝てるんです。で、夜中に何か変だなって感じて祖父を見たんです。とたんにこれは大ごとだって判ったんですよ。でも、どうして祖父の容体がおかしいって気付いたのか、いまだに判らなくて。ひょっとしたら、死神が来てたのかも……」  下町は苦笑した。 「君も古臭いことを言う」 「でもそうなんです」 「夜中に病院へ入れるのは大変だっただろう」 「往診を頼んだって、すぐ飛んで来てくれる世の中じゃありませんからね。もう、迷わず一一九番です。救急車はすぐ来てくれましたけど、五軒や六軒たらいまわしにされるのを覚悟してたんです。だから一一九番へ電話をして救急車がやって来るまでに、いちばんいい服を着て、いいハンド・バッグを持って」 「君がかい」 「ええ。そばについてるあたしがみすぼらしい恰好《かつこう》をしてたら、余計断わられてしまうんじゃないかと思って」 「それで何となくおめかしをした感じだったのか」  正子のスーツやバッグをじろじろと眺め、今度は下町が溜息をついた。 「いい心がけだと言いたいが、医療不信も極まれりと言う感じでなさけないな」 「でも本当に幸運でしたわ。だって、最初の病院ですぐ引受けてくれたんですもの。ちゃんと、看護婦さんもいて。おかげで何とか助かったらしいんです。何軒もたらいまわしにされてたら、きっと今ごろはお葬式の仕度」  正子はそう言って肩をすくめた。 「まったく、夜中や日曜祭日に病気になったら、命はないものとあきらめてかからなければならないな」 「でも、東京はまだいいんですって」 「うん、そうらしい」  下町は遠くを見る目になった。もう随分昔のことになるが、ひと粒だねを毒入《どくい》りミルク事件で失っているのだ。そのことを思い浮かべていたようだ。 「ご両親や兄さんには連絡したのかい」 「しようと思ったんですけど、何とか峠を越したらしいんで、そのままにしました」 「いいのかい」 「いいんです」  正子は淋《さび》しそうな顔で答えた。 「おじいちゃんはもう余計者ですからね。堀切《ほりきり》の父や母も自分たちのことで手一杯だし、兄なんかもう、とうに縁が切れたつもりでいるでしょう。嫂《ねえ》さんなんか、父や母がたずねて行ったっていい顔しないそうですから」  下町は黙って煙草《たばこ》に火をつけた。 「さて、仕事仕事」  正子はひとりごとのように言い、ふと時計を見て、 「あら、もうこんな時間……」  と言った。 「所長、お昼はどうします」 「君、今日は弁当なしだろ」  正子はいつも大きなハンド・バッグに弁当箱を入れて来る。 「ええ。あんな騒ぎでそれどころじゃなかったもんですから」 「チャーハンでもどうだい。奢《おご》るぜ」 「まあ、ご馳走さま」  正子は遠慮なく先に礼を言って受話器をとりあげる。駅前の三楽へ注文するのだ。 「下町《したまち》探偵局ですけど、チャーハンを二つ」 「岩さんが帰って来るかも知れないな」 「どちらへ……」  正子が受話器を置いて言う。 「客だ」 「あら、またですか」 「おいおい、客が来るのはいいことなんだぜ」  下町が言うと正子は笑った。 「すみません。でも、ここのところ、変な依頼が続いたもんですから、つい」 「そうだなあ」  下町は考え込むように言った。 「公害の仇討《あだう》ち娘に寝た切り老人の身もと調べか。面倒で実にならないのばかりだな」  現に、その寝た切り老人の身もと調べは難航してしまって、もう一週間も風間がかかりきりである。 「でも今度のは違うぞ。電話がかかって来て、面会場所をご指定と来た。本物だよ。窓口の客とは違う」  窓口の客とは、いきなりオフィスへ看板《かんばん》を見て飛び込んで来る依頼人を言うのだ。そういうのはたいていろくでもないことになり勝ちであった。     16  下町と正子がチャーハンを食べおわった頃、一階の戸が開閉して、板張りの床を靴で歩くわりと静かな足音が聞こえた。  正子が下町を見る。 「岩さんじゃありませんわ」  下町はお茶を飲みながら頷いた。 「只今《ただいま》」  北尾貞吉であった。 「あら、お帰りなさい」  正子が北尾のお茶をいれに立った。 「やあ、正子さん。祖父《おじい》さんのお加減はいかがですか」  北尾は少し疲れたように見えた。 「おかげさまで、何とか持ち直したようです」 「それはよかった」  北尾は自分の椅子に腰をおろし、大儀そうに内ポケットから手帳を出して机の上へ置いた。 「はい、お茶」 「有難う」  下町が北尾に訊《き》く。 「北さん、風邪を引いてますね」 「いや」  北尾は苦笑した。 「大したことはありませんよ」 「気をつけてくださいよ。うちはそうやかましい職場じゃないんだから、熱なんかがあったら適当に帰ってくれていいんですからね」 「はい」  北尾は頷《うなず》き、下町に気をつかわせぬよう、元気な声になった。 「それはそうと、驚きましたね」 「何がです」 「例の銀座のホステスさんの件です」 「ああ……」  北尾はそれで外出していたのだ。銀座のホステスが、自分の旦那……と言っても勿論本妻になれるわけではないが、これから面倒を見てくれようと言う男を調査にかけているのだ。 「危《あぶな》っかしいですよ」 「危っかしい……」 「ええ、商売がです。奥さんは六年前に死んでいて、それ以来独身」  北尾は手帳を見ながら言った。 「近所の評判はそう悪くありません。にぎやかな人らしくて、冗談《じようだん》の好きなご主人で通っているようです」  下町は頷いて見せる。その前に置いてあるチャーハンの器《うつわ》を正子が部屋の隅へ持って行った。 「子供は二人とも男の子で、高校と大学。これもまあまあ問題はありません。でも、何としても商売がねえ」 「いけないんですか」  下町が訊くと、北尾は複雑な表情になった。 「悪いという程じゃありませんが、銀座のホステスを囲うほどじゃないと思うんです。のべつ手形の決済に追われてますしね。従業員の給料だって払うのに四苦八苦です」 「遅れるんですか。支払いが……」 「いえ、遅れたことはないようです」  下町は、ふうん、と鼻で言った。 「でもねえ、女を囲うほどじゃ」  下町は笑い出した。 「北さん」 「は……」 「以前、話したことがなかったですか」 「何をです」 「或る調査マンが、一人の青年の調査をしたんです」 「はい」 「その青年は大酒飲みで三日にあげず酔っ払い、博奕《ばくち》好きで毎日のように仲間と賭《か》けごとをしている。月に一度はいかがわしいショーをやる劇場へ通い、週末には必ず競馬の新聞を買い、赤鉛筆で書き込みをする。調査の報告はそんな具合でした。多分その報告書を見たら、結婚は成立しなかったでしょうね」 「そうでしょう」 「でも、その通りには報告されず、青年はめでたく結婚しました。なぜだか判りますか」 「さあ」  北尾は小首を傾げる。 「独身の男ですよ。会社がひけたら一杯やったって悪くないでしょう。毎日のように安い飲み屋へ引っかかったって、ふしぎはないですよ。ところが調査では、せいぜい一日おきか二日おき。毎日じゃないんです。博奕好きと言っても、やるのは社内マージャンです。上司や同僚が会社の近くのマージャン屋を自分たちの巣のようにしていて、リーグ戦のようなことをやっていたんです。そして、月に一度くらいはストリップを見にも行くわけです。競馬の話題が出ても適当にうけ答えできる程度にはやっていたようですが、滅多に特券なんか買いはしません」 「じゃ、なぜそんなひどい報告を……」 「問題は調査マンなんです。学校の先生の古手でしてね、堅《かた》い人なんです。堅すぎるんですよ。四人で牌《ぱい》をいじっていると大博奕をしているように思ってしまう。自分はやったこともないんです。酒もやりません。勿論ストリップなんか、あのどぎつい看板の前を通るだけで眉《まゆ》をひそめると言う具合です」  北尾は真剣な表情になって聞いていた。 「結局、どこにでもいる平凡な独身サラリーマンが、手のつけられない道楽|息子《むすこ》に見えてしまったということですよ」 「なるほど」 「今日の北さんの調査も、言っては悪いが少しそれと似ていませんか」 「やあ、これは参ったな」  北尾は助けを求めるように正子を見た。正子は微笑して見せる。 「北さんは調査マンになる前、メリヤスの会社の社長をしていて、一生懸命仕事に精を出していた。小さな会社の経営の苦労が骨身にしみて判っている。一生懸命やっても倒産してしまった。それを、その人物のようにうかうかとやっていたんでは、他人ごとでも危っかしくて見ていられないでしょう。その気持は判ります。判りますけど、まずまずうまくやってるほうじゃないんですか。奥さんに先立たれて、淋《さび》しいんでしょう。また、自分を二号みたいにする男の身もとさえよく調べてかかろうというのだから、そのホステスだってしっかりしているじゃないですか。何人もの男を適当にあやつろうというんだったら、そんな調査なんかしはしませんよ」 「そうですねえ」 「調査マンというのは、結局最後は常識ということになるんです。かたよってはいけません。今日北さんが見て来た人物は、どこにでもいる平凡な人物なんじゃありませんか。手形の決済に追われない町工場の社長がどこにいます。政治の保護の薄い中小企業はみんなそういう苦労をしてますよ。ねえ北さん」 「は……」 「もしその社長が、仮りに倒産の憂き目にあったって、責めないでやろうじゃないですか。その人は一生懸命やってるんだと思いますよ」 「ええ、そうですね」  北尾は真剣に考え込んだ。そして顔をあげると、下唇《したくちびる》を噛《か》み、強く頷いて見せた。 「そうです。そうですよ。その程度のことをしたっていいんです。わたしは少し、人のことを許さな過ぎるのかなあ」 「そんなこともないですけどね」  下町は励ますように北尾に笑いかけた。 「そのホステス、しあわせになりそうな気がして来た」  北尾はそうつぶやき、何度も頷いていた。     17  岩瀬五郎が戻って来た。 「お帰りなさい」  正子がまたお茶をいれに立つ。 「祖父《おじい》さんの具合は……」  岩瀬も訊いた。 「おかげさまで」 「そりゃよかった」  岩瀬はそう言いながら、下町の後にある衝立《ついたて》のかげへ入って、そこのソファーに坐った。下町があとを追って岩瀬と向き合う。 「どう」  新しい依頼人のことだ。 「さあねえ」  岩瀬は煙草《たばこ》に火をつけた。 「依頼の電話が本式だったから、いい仕事かと思ったんだがな」 「まだよく判らない。俺も、これは大きな会社の秘書あたりがかけて来たな、と思ったんですけど」 「どんな人物」  正子がお茶を置いてすぐそばを離れた。 「中年の女でね。地味な和服を着てた」  下町は眉を寄せて岩瀬をみつめた。 「よく判らないんだ。とにかくちょっと変ってる。裏口入学を調べろというのさ」 「ほう」 「勿論、大学だけど」 「どこ」 「東日本医大」 「一流校だな」 「東日本医大の入試に何か臭いところがあるのかなあ。とにかく払いっぷりはいいような感じだ。証拠を掴《つか》んで欲しいんだそうだ」 「私大だからな。何か学校経営のトラブルかな」 「そんな気がするんだが、まだよく判らない。話しっぷりがひどく秘密めいていて、まず噂からボツボツ集めろって……」 「ふうん、対象を特定しては来ないのか」 「それがはっきりしないんでねえ」 「で、依頼人の身もとは……」 「向こうから必要なとき電話するそうだ。金は一応くれた」  岩瀬は現金をむき出しでテーブルの上へ置く。身もとをはっきり言わない依頼人の場合には、前金を取るきまりになっている。 「まあいいだろう」 「あの女、どこかかげがある」 「いずれ判るさ」 「今、手が空いているから、この件にとりかかりますよ」 「うん、そうしてくれ」  二人の話が一区切りしたとき、トントンと軽快な足音が聞こえた。 「風間が帰って来たらしい」  下町はそう言ってソファーから腰をあげた。 「お帰り」  正子が言った。 「どうした。寝た切り幽霊は」  岩瀬が席へ戻りながらからかうように言った。  風間は妙に固い表情だった。自分の椅子《いす》に坐らず、全員顔を揃《そろ》えたオフィスの入口に突っ立って、下町を睨《にら》みつけるようにしていた。 「何だ、言ってみろ」  下町が少しきつい声で言う。風間が何かに腹を立てていることは、もうみんな判っているようだった。 「冗談じゃねえや」  風間は吐きすてるように言った。 「何が親切な隣人だい。あの館野って奴は、寝た切り幽霊の実の弟だそうじゃないですか」 「何だって……」  岩瀬が喚《わめ》くように言った。みるみる顔が赤くなって行く。 「寝た切り老人の身もとを調べてくれと言って来た、となりのアパートの親切な老人が、その寝た切りの爺さんの弟だと言うのか」  岩瀬は本気で怒ると、物事を几帳面に喋《しやべ》る癖がある。そのかわり、いつもは何事もすべてあいまいにしか言わない男なのだ。 「そう」  風間はまるで岩瀬に売られた喧嘩《けんか》を買うような調子で、鋭く答えた。みすぼらしいオフィスの中が、かなり長い間、しんと静まり返った。 「野口のおばあちゃんという人の家で聞き出したんです。あそこへ出入りしている老人たちの中に、館野たちをよく知っているのがいたんです」  怒るのも無理はない。風間も下町も、これがただばたらきになるのを承知の上で動いていたのだ。岩瀬も北尾も正子も、できればそれに手を貸したいと思っていたくらいだ。 「冗談じゃない」  下町が低く言った。 「ひどいわ」  正子が言った。 「汚《きたな》い」  と北尾。     18  ガタガタと下駄の音が聞こえる。すぐにとなりの婆さんが姿を現わした。 「なによなによ、いい歳して。喧嘩なんかすると追い出しちゃうからね」  婆さんは自分の息子たちを叱《しか》りつけるようにそう言った。 「いったいどうしたっていうの」  すると全員が下町を見た。喋っていいかどうか、判断を仰いだのだ。下町が風間を見てかすかに頷《うなず》いた。 「仕方ないさ」  老人の件は、公開捜査のつもりで婆さんにも喋ってしまっていたのだ。みんな、気落ちしたように溜息《ためいき》をついた。 「ねえ、どうしたの」  婆さんは下町の前の椅子に坐って風間に訊《き》いた。 「高橋《たかばし》の森荘にいる鈴木って言う老人のことです」 「ああ、あの人のこと。あんた感心だよ。野口のおばあちゃんのところで、随分熱心に調べたそうね」 「依頼人と兄弟なんです」 「え……依頼人て、ここへ調べてやってくれって言って来た、館野さんのことなの」 「館野とあの寝た切り老人は実の兄弟なんですよ」 「それがどうして……」 「お婆ちゃん、判んないの」 「判んない」  婆さんは顔を傾げてみんなの顔を見まわした。 「あの野郎、寝た切りになってしまった自分の兄貴の始末を、俺たちにつけさせようとしたんだ」 「あんたたちに……」 「うん。どう調べたって、兄貴の身もとは知れっこないと判ってたのさ。俺たちはお人好しだから、調べ抜いた揚句、見かねてどこかの施設へ入れるようにしてやるんじゃないかと見当つけたんだ。そうじゃなかったら、自分が一番よく知ってることを、憐《あわ》れっぽい面《つら》で調べてくれとたのみに来たりするもんか」 「そうだねえ」  婆さんは呆《あき》れ顔で言った。 「俺、嫌になった。貧乏人同士の足の引っ張り合いなんか、もう見たくもねえ」  風間は自分の机を拳《こぶし》で力まかせにひとつ叩《たた》いてから椅子に坐った。 「風間は今度のことで、いろいろ嫌なものを見ているんですよ」  下町が婆さんに言った。 「嫌なことって……」 「いろいろです。たとえば、福祉電話の詐欺《さぎ》」 「詐欺……」 「ええ。一人暮らしの老人には、福祉電話というのがつくんです。ただで電話をつけてくれて、一定の通話料までは国が払ってくれるんです。或《あ》る一人暮らしの老人のところへ、バリッとした服を着た奴がやって来て、その電話をつけてあげられるのだが、設置料を払えるかと訊《き》いたんです。勿論《もちろん》高い金じゃないが、払えやしません。その話を聞いた者が近所を駆けまわって共同|募金《ぼきん》ですよ。集めた金をそいつに渡したら」 「ドロン……」 「ええ。設置料なんかもともと要らなかったんです」 「ひどいのがいるねえ」 「まだありますよ。一人で頑張ってるお婆さんが病気になった。医者が見たら栄養失調だった。それで調べて見ると、公園の草や何かを毎日食べてたというんです」 「まあひどい」 「お金を一円でも使うまいとしてたんです。でも、それほどにしてためた筈の金がどこにもない。で調べたら、やくざな息子が、交通事故で人を死なせたからと嘘《うそ》ついて、取りあげてたんです。自分は女とマンションに住んでる」 「そんなの、ぶっ殺してやればいいのよ」 「風間はここのところ、老人たちのところをまわり歩いて、そういう話ばかりにぶつかっていたんです。こいつが怒るのも無理はない。それでも自分は綺麗なことをしてるんだからと、それだけをたよりに薄汚い底のほうを駆けまわってたんですからね」  婆さんは言う言葉もないらしく、頭を振ってうつむいた。 「嫌だねえ」 「役人も政治家も、ふたこと目には福祉福祉と言うけれど、そういう所へまでは手が届きはしない。現ナマを実弾と称して、選挙のたびに雪合戦でもやるようにそいつをぶつけ合う連中は、いったい何の為に当選したがるのかなあ。連中がやりたいのは政治じゃないんだ。当選してえらくなりたいだけなんだ。えらくなって利権を漁って、ぶっ放した実弾のモトを取っちまうんだ。でも、何でもかでも政治のせいにするわけにも行かない。俺たちはそんなものに頼っちゃいられないんだ。足の引っ張り合いをせずにすむように、せいぜい毎日を一生懸命生きるだけだ。一人暮らしの寝た切り老人にならないようにね」  下町の言葉のおわりのほうは、つぶやくようだった。 「最後の救いを求めたのかなあ」  北尾が言った。 「欺《だま》されてやらなきゃいけないのかなあ」  風間が言った。 「きっと、家族がいても引取らないことがはっきりしてるんだよ」  岩瀬も言った。 「どうやったらそのお兄さんを施設へ入れてあげられるのかしら」  正子もつぶやいた。 「あたしも骨を折って見るわ」  婆さんは立ちあがった。 「町会の事務所へ行けば、何か教えてもらえるかもね」  コトン、コトンと婆さんの下駄《げた》の音が、階段の下へおりて行った。 「そうだ」  下町はみんなに気合いを入れるように大きな声で言った。 「俺たちは自分にできることをしてればいい。どうだい、彼女のおじいさんが入院してるんだ。かわりばんこに見舞ってやろうじゃないか。家族は勿論行くだろうけどさ、おじいさんもにぎやかなほうが楽しいだろう。病院だって、見舞客の多い患者は一目《いちもく》置くって言うぜ」 「俺《おれ》行く」  風間が言った。みんなもその気らしかった。     19  風間は寝た切り老人の身もと調べをやめた。下町探偵局は、なんとかかつかつの仕事にありついて、みんな結構いそがしそうに飛びまわっていた。  正子の祖父の病気は長引いて、一日置きくらいに、夕方正子と一緒に誰かしら見舞いに行っているが、あまりはかばかしくないようであった。 「うちの坊主も来年は幼稚園でね」  今日は岩瀬が見舞いに行く番で、両国駅から正子と一緒に電車に乗っていた。 「あら、もうそんなに。早いものねえ」 「大変なんだぜ、幼稚園と言っても。女房はもう目の色変えてるよ」 「どうして……」 「入学難さ」  岩瀬は笑った。 「入園難ってのかな」 「そうなの……」 「うん。いくつもの幼稚園に口をかけてる。それでも危いらしい」 「あたしなんか、行かなかったわよ」 「昔はそれでよかったのさ。幼稚園なんて贅沢品みたいなもんでな。でも今は必需品さ」 「なぜ……」 「昔みたいに、近所の子が大勢集まって遊ぶということがなくなっちゃったんだ。子供は子供たちの中へ入れとかなければな」 「そうね。それが結構訓練になるんですものね」 「昔は、三つくらいから小学校三、四年くらいまでの子供たちが、町ごとにひとかたまりになって遊んだもんさ。上の子は下の子の面倒を見ながらな。ところが今の子は子供の付き合いが少ないから、四つくらいの奴が、まだヨチヨチ歩きの子を力まかせに突きとばしたりしやがる。判っていないんだ。昔の子はちゃんと加減できたんだけどな。だから、幼稚園が必需品になっちまったんだ」 「それに、夫婦共稼ぎも多いしね。大変だわ、そんな中で子供を育てるのは」 「鍵《かぎ》っ子《こ》か。あれは悲惨だな。原っぱで日の暮れるまで友達と遊《あそ》び呆《ほう》けていられた俺たちは、今になると物凄《ものすご》い贅沢をしていたことになる。正子ちゃん、遊ぼうよ……」  岩瀬は節をつけて言い、正子が笑った。 「思い出したわ。みんなそう言ってさそいに行ったものね」 「今じゃみんな呼鈴《よびりん》の釦《ぼたん》を押しやがる」 「何て言うのかしら」 「正子ちゃんいる……さ」 「おたくの坊やは何と言う名前だったかしら」 「忠《ただし》さ」 「忠ちゃんいる……。そう言って遊びに来るわけね」 「うん。忠ちゃんいる……。出られる……だぜ、まったく」 「出られる……」 「遊びに外へ出られるかってことさ。凄《すげ》えことになりやがった」 「ほんとねえ」 「だから幼稚園へやらなければ」 「大変だわねえ」 「保育園とか保育所とかってのがあるだろう」 「ええ。幼稚園よりもっと下の子を預かるんでしょう」 「うん。それが幼稚園と直結してる所があるんだ。エレベーター式に上へ行けるんだな」 「へえ、そんな所があるの」 「うん。そんな保育所は幼稚園へ入るよりもっと大変らしい。預ける必要のない連中まで、口実を作って預けるからだとさ」 「幼稚園へ入れる為に……」 「そう」 「ばかばかしい。大学へ入れるみたい」 「結局、大学へ入れるまで、親はハラハラし通しなんだな」  夕方の下りは混雑していて、二人は乗客を掻《か》きわけて新小岩駅のホームへおりた。正子が住んでいるのは平井の四丁目だが、病院は新小岩の駅の近くであった。 「ここよ」  正子が岩瀬を連れてその病院へ入った。たいして大きくはないが建物はまだ新しかった。 「どうも」  正子はそう声をかけ、頭をさげて受付の前を通り過ぎた。 「あら、どうしたの」  岩瀬が妙な顔をしていた。 「早く行こう。病室はどっちだい」  靴を脱いでスリッパに履《は》きかえた岩瀬は、正子を急がせた。  パタパタとスリッパを鳴らして二人は階段をあがって行った。 「新田《につた》病院か」 「そう。古いんですって。でも最近建てかえたばかりよ」 「うん」 「どうかしたの」 「実は受付の窓の中に、知った顔が見えたのさ」  岩瀬がそう言った時、二人はもう正子の祖父がいる病室の前へ来てしまっていた。  おみやげはウイスキー・ボンボン。古臭いが、それだからこそ正子の祖父の好物なのだろう。岩瀬はそれを探《さが》すのに二日もかけてしまっていた。  適当に世間ばなしをしてその病室を出たあと、廊下で岩瀬は正子に言った。 「君は自分の勤め先をこの病院の人に言ったかい」 「いいえ」  正子は怪訝《けげん》な顔をしていた。 「健康保険は……」 「おじいちゃんはおじいちゃんで持っているから」 「そうか」 「この病院に、下町探偵局のことを知られてはいけないの……」 「まあな。受付けにいたのは、うちの依頼人だよ」 「あら、どの人」 「和服の上の白衣を着ている女だ」 「ああ、あの人」 「知っているのか」 「よく知らないわ。事務の人みたい」 「君も探偵局の人間だ。それとなく探って見てくれないか」 「怪しいの」 「別に怪しくはない。でも、調査の目的をはっきり言わないんだよ。そういうことは、よく判っていたほうが仕事がし易いんでね」 「はい、判りました。気付かれないようにやってみますわ」 「頼んだよ」  岩瀬はそう言うと階段のほうへ去った。     20  印刷屋の婆さんは、いざとなるとなかなかの勢力家だった。  町会の事務所に陣取って、下駄屋の悠さんを顎《あご》で使いながら、着々とその筋へ攻撃をかけていた。  おかげで区会議員の月村《つきむら》が動き出し、寝た切り老人の問題は解決に近付いて行った。 「月村の旦那が動き出したからもう安心ですよ」  悠さんがいつもの着物姿で下町の前に坐っている。 「それにしても、あのおばあちゃんのエネルギーは大したものですよ」 「それでこっちは参ってる。まるでうちの経営者みたいさ」  下町は苦笑した。 「お節介《せつかい》だからね。でも、そこがまた、あのおばあちゃんのいいところ。白河町《しらかわちよう》のほうに、野口さんという有名なおばあちゃんがいるんだけど」 「ああ、老人たちの世話をしているという人だね」 「そう。その野口さんのところへ、今度の寝た切り幽霊事件以来、日参してる」 「ほう、そいつは知らなかった」 「例の、高橋《たかばし》の森荘の持主の」 「森かおり……」 「そう、元人気歌手森かおり。今じゃこんなに肥《ふと》っちゃって」  悠さんは自分の腹をさすって見せた。 「いい貫禄の婆さんになっちゃったけど。その森かおりを野口さんの所へ連れて行こうてんで大さわぎをやってる」 「連れて行ってどうするの」 「唄《うた》わせるの」 「歌を……」 「当たり前でしょう。何だと思ったの。所長もボケはじめてるんじゃないだろうな」 「まだボケるには早いよ」 「老人ホームの慰問というわけ。野口のおばあちゃんのとこは、まるで老人ホームだものね」 「そうか。いいとこあるな」 「それで、俺も行きます」 「何しに。手伝いに」 「噛《か》みつくぞ」  悠さんは歯を剥《む》いて見せた。 「俺も唄うの。うまいから」 「悠さんも唄うのかい」 「当然。森かおりとデュエットか何かやっちゃって」 「いい気なもんだ。年寄りがその場で引っくり返ったらどうする気だい」 「その時はその時。医者まかせ」 「病院があいてる時間にやってくれよな。救急車のたらいまわしなんてことになりかねないぞ」 「とにかく唄う。森かおりと一緒に唄うんだ」  悠さんは張り切っていた。本所森下町出身の流行歌手森かおりは、引退したあとも悠さんのアイドルであるらしい。 「伴奏、どうする」 「おたくの健ちゃん」 「風間……」 「そう。あれ、ギターもアコもいけるんだよ」 「そうか。池袋で流しをやっていたんだっけ」 「一緒に来ない。俺の歌、聞かせてあげるから」 「いつも、うさぎ屋で嫌というほど聞かされてるよ」 「でも檜舞台《ひのきぶたい》だよ、今度は」 「私設老人ホームがかい」 「世の為人の為になる美しい歌声。聞いといて損はないよ。ねえ、切符買って」 「切符を売るのかい」 「冗談」  悠さんは笑った。そこへ正子が戻って来た。えびす顔だった。 「おばあちゃん、とうとうやったわよ」  弾むように言った。 「え、そうかい」  悠さんが立ちあがる。 「寝た切りの鈴木さんは、多摩のほうの施設へ入れることにきまったの。たった今よ。おばあちゃんたら月村さんに、この次もきっとあんたを当選させてあげるなんて言っちゃって」 「俺、行ってこよう」  悠さんはガタガタと下へおりて行った。 「よかったなあ」  下町がしみじみと言った。 「この探偵局も、何とか世の中の為になれたみたいですね」 「おいおい、それじゃいつもは為にならないみたいじゃないか」  久しぶりに陽気な笑い声がオフィスに溢れたようだった。  そして翌日、あの館野という老人が礼を言いに来た。さいわい、みな出払っていて、オフィスに残っていたのは、下町と正子だけであった。 「おかげさまで、鈴木さんは施設へ入れてもらえることになりました」  館野はそれが自分の兄であることを、まだ知られていないと思い込んでいるようだった。 「よかったですね。でも、鈴木さんの身もと調べのほうは結局判らずじまいで」 「仕方ありません。それより、料金のほうは……」 「館野さん」  下町は相手をみつめて静かに言った。 「料金はいただけません。鈴木さんのことは、みんなの善意の結果です。あなたからお金をいただいたら、その善意が無になってしまいます。それよりも、あなたご自身の為に大事に使ってください。あの人のようにはならないように」  館野ははっとしたように下町をみつめ返した。下町が鈴木さんのように、と言わず、あの人のようにと言ったのに気が付いたのだろう。 「判っています」  しばらくして館野はきっぱりと言った。 「わたしはあんな風にはならないでしょう」  館野はそう言うと、のっそりと立ちあがり、 「ではこれで」  と帰って行った。 「何だか、あっさりしすぎてるみたい」  正子は不満そうに言った。たしかに、館野の態度は、下町にとっても何か物足らないような感じだった。     21  清州橋《きよすばし》通りから少し入った野口のおばあちゃんの家。 「大福は気をつけて食べてくださいよ」  悠さんが床の間を背にして立って、大声で言っている。 「喉《のど》につっかえるからね」  印刷屋の婆さんがお茶をみんなについでまわっていた。 「本当によくいらしてくださいました」  隅のほうで品のいい野口のおばあちゃんが、肥った森かおりこと、本名中山ふでさんに礼を言っている。  障子はあけ放し、廊下のガラス戸には白いカーテンが引かれていた。 「こら、啼《な》けよ」  風間がアコーデオンを膝《ひざ》にのせて、印刷屋の婆さんが持って来た鶯《うぐいす》の籠に指を突っこんだりしている。 「鶯というのは、秋はもう啼かないものなんですかねえ」  下町が近くの老人に尋《たず》ねた。 「そんなことはない」  老人は下町を見くだすように答えた。 「冬でも啼くときは啼きます。この鶯はあまりよくないようだな」 「そんなことはないわよ」  お婆さんが横から言う。 「綺麗《きれい》じゃないの。いいわねえ、こういう色って、春みたい」 「鶯はみなこんな色だ」 「ごめんなさいね。この人はいつもこれなんだから」  その婆さんが下町にあやまった。 「鶯は手がかかるんだ」  これは別の老人。 「俺も昔、何度も飼ったことがあるよ。いっとき、ひどくはやってね、鶯を飼うのが」  蜜柑《みかん》に梨《なし》に大福に羊羹《ようかん》。ひっきりなしにお茶がつぎ足され、十七、八人の老人たちが、演芸のはじまるのを待っていた。 「ええと、……それではいよいよはじまります」  悠さんが司会役だ。拍手が起る。 「健ちゃん、こっちへ来て」  風間がアコーデオンをだいて床の間のほうへ行く。 「あなたもわたしも知っている。ご当地出身の大スター、森……かおりさん」  森かおり、と言う時の悠さんの声は、ボクシングのリング・アナウンサーの声みたいだった。  それでも、森かおりがさすがに慣れた仕草で立ちあがり、一人一人に笑顔を送りながら床の間を背にした。 「では最初に、デビュー曲の草笛野笛《くさぶえのぶえ》から」  森かおりは自分で言い、風間に合図をした。 「思ったよりやりやがる」  下町は風間のアコーデオンの前奏を聞きながらそうつぶやいていた。  そのずっと向こう。  多摩の緑の丘の上に、赤い屋根をのせた白い壁の綺麗な病院があった。老人たちが集まっている野口のおばあちゃんの家のあたりとくらべたら、ゴミゴミした下町の生活が嫌《いや》になるくらいだ。  自動ドアの玄関を入ると外来の受付窓口が並んでいる。床は美しいリノリュームばりで、行き交う看護婦たちの白衣も清潔そのものである。が、そのピカピカの廊下をずっと奥のほうへ入ると、或る所から急に古い板張りにかわる。舗装《ほそう》道路から砂利道になったような具合だ。  そしてギシギシと鳴る階段をあがると、そこが老人病棟であった。  三十畳ほどの細長い部屋に、ベッドが二列に並んでいる。異様な感じがするのは、そのベッドがやけに低いせいだ。老人が転落しても怪我をしないように、みな脚《あし》を短かく切ってしまってある。  六十人ほどの老人が、そんなベッドの上に、まるで荷物のように並べられていた。  みんなが苦労して老人を送り込んだ施設というのがそこであった。もう、あの老人がどれだか、見分けもつかない。  おもらしをしてもいいように、老人たちは一様におしめをつけていた。おしめをさせられた老人たちは、人間というより、大きな芋虫《いもむし》のようだった。  そして臭《くさ》い。たれ流しの老人たちから発する臭気《しゆうき》だ。看護婦は検温だけにしかまわって来ない。病院が傭《やと》っている専属の付添いが六十人の老人たちに、二人だけいる。どちらも老人だ。医者が来るのは火曜と木曜の週二回だけ。それもインターンの若い人だ。  まだ自分で動ける老人たちが、付添いの二人の老人を自主的に手伝って、仲間のおしめをかえてやる。  動けない老人の持物は、すぐになくなってしまう。金などはあっという間だ。  食事は朝がマーガリンつきのコッペパンに牛乳。まだコッペパンを作っているパン屋があるらしい。  よく調べると、その老人たちには、たいてい生命保険がかけられているという。受取人の半分以上はあかの他人だそうだ。どこかでせっせと掛金を払っている奴がいるのだ。  塩のおむすびに奈良漬。  老人たちは歓声をあげていた。印刷屋の婆さんが、指をふやけさせて握った、たくさんの三角むすびだった。 「こりゃまるで遠足のようだぞ」  気むずかし屋の老人が大はしゃぎで言った。 「ではいよいよ、森かおりさん最大のヒット曲、恋の渡り鳥です」  ズン、チャッチャ、ズン、チャッチャと、あの懐かしい前奏がはじまった。 「今宵《こよい》の司会者、不肖《ふしよう》この大多喜悠吉が森かおりさんとデュエットで唄います」  それがやりたくて悠さんは張り切り抜いていたのだ。  下町も、力いっぱい拍手をしていた。  両国駅で事故があり、総武線がとまっていた。  ホームに人が溢《あふ》れ、線路に青い服を着た職員たちの姿があった。 「人身事故……」 「下《くだ》りが入って来るのへ飛び込んだんだってさ」  高校生たちが話している。 「何もこんな時間に電車をとめなくたって、死にようはいくらでもあるだろうになあ」  帰宅する高校生がぼやいた。  あの老人は、芋虫のように低いベッドの上に横たわっていた。もう舌もまわらないのだ。  だが泣くことはまだできる。老人のひからびた頬《ほお》に、涙の跡が幾筋もついていた。  過ぎた昔を想っているのか……。  とにかく彼にとって、そこが終点であった。  両国駅から館野の遺体が運び出されるところだった。  悠さんは唄いまくっていた。  みんなが酔い、唄い、そして老いて行く。  第三話 裏口の客     1  下町誠一《しもまちせいいち》は目を覚ました。部屋の中は暗い。横になったまま右手を壁のほうへ伸ばすと、一発で指先に電気のスイッチが触れた。パチンと軽い音がして、天井の灯りがつく。寝る時いつも小さいほうの灯りにして置くから、薄暗くて幾分赤っぽく見える。  そこは台所のとなりの六畳間だ。以前は和室だったが、下町が自分でベニヤ板を打ちつけ、壁や天井を白く塗って洋間にしてしまった。窓には安物のブルーのカーテンをかけ、ソファー・ベッドに寝ている。古ぼけた籐《とう》の安楽椅子や、小さな整理だんすなどが、薄暗くて赤っぽい光の中に見えている。  下町は体を起した。サイレンの音がやけに近づいて来て、すぐ近くでとまったからだ。ウー……と言う奴《やつ》じゃなくて、ピーポー、ピーポーと言う新式の音だ。その音が急にやむ。 「救急車か」  そうつぶやいて、下町はよれよれのパジャマにサンダルを突っかけ、ドアをあけた。パタン、パタンとサンダルを板張りの廊下に響かせて玄関のほうへ行った。  ガラガラと戸をあけると、赤いライトを浴びた人影が目の前を小走りに横切った。斜め前にアパートがあり、その奥のほうへ担架《たんか》を持った白衣の男たちが入って行くところだった。下町はアパートの前へ近寄って行った。 「どうしたんです」  そばに立っている女に訊《き》いた。 「さあ」  要領を得ない。下町は集まった弥次馬《やじうま》を見渡した。となりの印刷屋の婆さんの姿を探《さが》したのだ。しかし見当たらなかったので、振り返って印刷屋の二階を見た。灯《あか》りが消えていて誰《だれ》もいない。 「珍しいこともあるもんだ」  下町は苦笑した。こういうことがあると、いの一番に飛んで出る筈なのだ。  弥次馬たちが動いた。担架が出て来たのだ。白衣の男たちは手際よく患者をのせた担架を車に押し込むと、自分たちもさっと飛び乗ってしまう。よく見えなかったが、患者は男らしい。  ピーポー、ピーポー……。またけたたましい音が鳴り出し、車は走り出した。弥次馬たちは声もなく散りはじめる。  と、浴衣《ゆかた》の寝巻を着た印刷屋の婆さんが、カタカタと下駄《げた》を鳴らしてアパートから出て来た。 「やあ」  下町が言うと、婆さんは救急車が去ったほうを眺めながら、 「やだねえ」  とつぶやいた。 「どうしたんです」  重ねて尋《たず》ねると、とたんに喋《しやべ》り出《だ》した。 「自殺よ。睡眠薬《すいみんやく》をいっぱい服《の》んじゃったらしいの。ちゃんと遺書もあったわ。いえね、一階の七号室にいる子なのよ。おとなしい子でさ。メリヤス屋の竹中《たけなか》さんの一番上の子なのよ。去年大学をすべって浪人《ろうにん》してたの。勉強できる子なのにねえ。あそこのうちは下にまだ四人もいるでしょう。それに家でメリヤスの仕事してるからうるさいし。だからここに勉強部屋を借りてやってたのよ。両どなりがお相撲《すもう》の関係の人だからさ、巡業や何かで留守が多いでしょう。案外静かなのよ。でも、あの年頃の子って、むずかしいからねえ。自信なくしちゃったんじゃないかしらねえ。そろそろ冬だし、冬ってば受験勉強の追い込みだものね。でもさ、大学へ行くばかりが人生じゃないのにねえ。冷えて来ちゃったわ。あんた風邪《かぜ》引かないでよ。じゃ、おやすみ」  カタカタカタ……。ギイッとブロック塀の木戸をあけて帰ってしまった。  下町は自分も戻りかけ、空を見あげた。まん丸い月が、白く冷たく光っている。 「月は無情と言うけれど、か」  ひどく古臭いことを言って戸をあけ、部屋に戻った。すぐに寝る気はなくなっていて、煙草《たばこ》に火をつける。安物の目覚し時計は二時をさしていた。  整理だんすの一番上の抽斗《ひきだし》をあけ、底のほうから何かとり出す。写真だ。ベッドに坐《すわ》った女が、ヘッド・ボードによりかかって笑っている。赤ん坊をだいていた。  下町はじっとそれをみつめている。咥《くわ》え煙草の煙が目にしみたのかどうか、目をしばたたきはじめたと思ったら、急に手早くそれをしまって一気に抽斗をしめた。 「ばかが……」  そうつぶやいてベッドへ腰をおろした。自殺を試みたアパートの浪人のことを言っているのだ。下町の長男は、ミルクを飲んで死んでしまった。砒素《ひそ》入りのミルクだ。もうずいぶん前のことになる。ちゃんと薬局に売っている奴だったし、一番最初は母親がまだ産院にいるとき、そこの連中にすすめられたのだ。産院の廊下に貼《は》ってあったそのミルクのポスターを、下町はまだ忘れられないでいる。  その子が生きていたら、下町も倅《せがれ》の入試に頭を悩ませただろう。でも死んでしまった。そのことで夫婦別れになり、当時やっていた仕事もだめになって、こうして今は貧乏探偵局をしている。あれは昭和三十年の八月だった。何事もなく育っていれば、そろそろ大学を卒業する年に近づいている。 「浪人か……」  またつぶやく。ひょっとしたらできが悪くて、まだ浪人をしているかも知れない。でも、それはそれで結構楽しいのではないだろうか。生きてさえいれば……。  下町は煙草をテーブルの上の灰皿に揉《も》み消《け》すと、ごろりと横になって頭の下へ両手を組んだ。目をとじる。  そばで息子《むすこ》が勉強している。おい、今年こそは受かってくれよ……父さんも楽じゃないんだからな。  そんなことを息子に言っているところを空想しているのだ。息子は下町より背が高くて、わりといい男だ。生意気に恋人なんかがいて、ふとした折りに挨拶《あいさつ》されたりする。ぽっちゃりした可愛《かわい》い子で、下町はへどもどしてしまうだろう。  だが、そんな楽しい空想も長くは続かない。ミルクを作った会社は潰《つぶ》れるどころか、いっそうさかんにテレビで宣伝なんかしている。大学を出た連中の中には、その会社へ入社する者だっているのだ。  だが、そんなことを今更考えたってはじまらない。ただアパートの浪人の命が助かるように祈るだけだった。     2  お早う、お早う、と下町探偵局が全員顔を揃《そろ》えたところで、ガタガタと下駄の音が階段を昇って来る。今朝ばかりはとなりの婆さんが何を言う気で来たか判り切っているから、その音を聞いたとたんに下町は思わず苦笑した。 「お早う」  小柄な婆さんがドアをあけて入って来た。 「凄《すご》かったですね、ゆうべの火事は」  下町が先制攻撃をかけた。 「火事……」  婆さんはキョトンとする。 「あら、火事があったんですか」  と正子。 「嘘《うそ》よ」  婆さんは下町を睨《にら》みながら、下町のデスクの前の折り畳み式の椅子に坐った。 「自殺未遂があったのよ。ピーポー、ピーポーって救急車が来ちゃってさ」 「どこ……」  岩瀬が訊く。 「前のアパートの七号室」 「お婆ちゃん」  下町が真顔で尋ねた。 「なあに」 「自殺未遂って、助かったんですか、あの子は」 「ええ、そう。自分で吐《は》いちゃってね」 「それはよかった」 「ほんと。あそこまで育てた親の身にもなって見ろって言うのよ、ねえ」 「若い人なの」 「大学の浪人よ。二年目なの」 「しんどいなあ」  風間が言った。 「聞いただけで、俺なんかうんざりしちゃうよ。二年間も試験の為の勉強なんかするんなら、死んだほうがましだな」 「あら健ちゃんは大学行かなかったの……」 「行くもんか、そんなところ」  婆さんは下町のほうへ向き直り、 「所長は行ってるんでしょうね」  と訊いた。 「東大」  下町が答えると、婆さんはとび切りの冗談《じようだん》を聞いたようにのけぞって笑った。 「北さんは」  婆さんは笑いながら北尾貞吉に訊く。 「わたしは東洋経済大学です」 「へえ、で、岩さん、あんたは」 「俺はね」  岩瀬五郎は朝刊を畳み直しながら言った。 「城南大学を出てすぐに毎朝《まいちよう》新聞へ入ったんだ」 「いい大学を出てるじゃないの。大したもんだわ」  下町がぷっと噴き出した。 「何よ。城南大学って良くないの」  今度は岩瀬が笑う。 「あら、何がおかしいんですか」  正子が訊く。 「有名な架空《かくう》の大学の名前だよ、城南大学ってのは」 「あら、ないの。でも聞いたことあるわよ」 「そりゃあるでしょう。映画やテレビでは、大学って言うとその名前を使うことになってる。新聞社だと毎朝新聞さ」 「そう言えば、テレビなんかじゃ新聞記者というと、毎朝新聞の記者です、なんて言ってるわねえ」  婆さんと正子はやっと岩瀬の冗談を納得したように微笑し合った。 「とにかく今は、大学を出てないことにはどうにもならないからな」  岩瀬はまた新聞に目を通しながら淡々として言った。 「そんなことないわよ」  婆さんが少しむきになって言う。 「いや、だめです」  岩瀬はいやに断定的だった。 「昔は、人は見かけより中身だ、と子供に教え、事実そうするように一応はみんな心がけましたよ。それは今だって変らないことかも知れませんがね。でも、こう人が多くなっちゃ、いちいちそこまで見ていられないさ。それに、みんな大学出ばかりだからね。右も左も大学出」 「やな世の中よ」  婆さんは吐きすてるように言う。 「浪人したら自殺したくなる時だってあるだろうね。何しろ競争が激しいんだから。うちなんか、幼稚園へ入れるのにもう大騒ぎなんだから、まったく嫌《いや》になっちまう」 「そうなんですってね」  正子が同情したように言った。 「区会議員のところへ持ち込まれる相談ごとの中で、一番多いのが保育園と幼稚園の問題だそうだ。ことに下町方面はひどいらしい」 「幼稚園なんか、やらなくたってかまわないじゃないの」  婆さんが言う。 「あら、そうでもないんですって」  正子は岩瀬を見て、 「ねえ……」  と念を押すように言った。 「幼稚園へ入れてやらないと、今の子はろくに遊び方も憶えられない」 「親が教えてやればいいじゃないさ」 「子供同士の付合い方ですよ。昔みたいに外で二十人も三十人もかたまって遊んでやしないでしょう。年下の子にはどうすればいいかなんてことが、判らなくなっちゃうんです。下の子には優しく、なんて言ったって、どのくらいの力で押したらいいかまでは判りっこない。テレビでコメディアンが人形を放り投げているのを見た子が、寝ている赤ん坊を使ってその真似をして殺しちゃった事件があるくらいですよ」 「そうかあ……」  婆さんは鼻白んだようだった。 「さて、俺は出かける」  岩瀬は新聞を風間に差し出し、 「見る……」  と言って渡してから立ちあがった。 「でも親不孝よ、自殺するなんて」  婆さんは出て行く岩瀬に言った。 「そう、親不孝」  岩瀬はあっさり認め、階段をおりて行った。 「親不孝よ、ねえ」  婆さんは物足りなさそうにみんなを見まわす。 「そうですねえ」  正子が答えた。 「でもさ、教育ママじゃないのかな、そいつのおふくろさん」  風間が首をかしげて言った。     3 「竹中さんの奥さん……」  婆さんはちょっと考えてから、 「少しそのけはあるみたい」  と複雑な微笑を泛べる。 「嫌だな、教育ママって奴」 「子供のことを思えばこそよ」 「そいつがうさん臭いんだ」 「あら、なぜ」 「だってさ、子供の為、子供の為、って言いながら、その実何だか自分の為みたいだ」 「あんたなんか、まだ若いから判んないのよ」 「ちぇっ」  風間は面白くなさそうな顔で新聞を読みはじめる。 「風間の言うことにも一理あると思いますよ」  下町が言った。 「勉強のことに限らず、親ってのは何かと言うと、こんなにお前のことを思っているのが判らないのか、なんて言い方をしますね」 「ええ」 「子供から見ると、それが何だかすっきりしないんじゃないだろうか」 「どうして……」 「よく考えて見ると、親は子供のことを案じている……それはたしかですよ。でも、子供に口やかましく言う理由はほかにもありそうじゃないですか」 「どんな理由があるって言うのさ」 「こんなに心配しているんだから、もっとわたしの言う通りにして、やきもきさせてくれるな、ってね」  下町は柔和な微笑を婆さんに向ける。婆さんは目を天井へ向けて考え、エヘヘ……と笑った。 「実を言えばそういうことだわね」 「そうでしょう」 「そうなのよ、実は自分の為」 「子供はそれを嗅《か》ぎ取《と》ってしまうんでしょうねえ」 「むずかしいものね」 「子供が遊びにかまけて勉強をおろそかにし、その為に浪人してしまった。そんな時、嘆く親のほうにあるものの半分くらいは、自分自身に対するあわれみみたいなもんではありませんかね。それを全部子供のほうへ持ってっちまうから、子供にすれば不当ですよね、これは。負い目がある所へ、親の身勝手みたいなものを感じるから、自然親から遠のく。でもまだ力がないから自力ではどうしようもない。そこでやけになる。本格的に親にさからいはじめる。それでいて、親を安心させてやれる自分でもありたいから、時には自己嫌悪におちいったりもするんです」 「それで睡眠薬……」 「まあね」 「言ってやらなくちゃ」  婆さんは立ちあがった。 「どちらへ……」 「竹中さんとこよ。いい話を聞いたわ。どうもありがとう」 「よしなさいよ」  下町はとめたが、婆さんはトコトコと出て行ってしまった。 「行っちゃった」  下町は気が抜けたようにつぶやいた。 「本当に行くな、あの調子じゃ」  風間が笑った。 「行ってそのおふくろさんに説教しちゃう。所長のせいですよ」 「参ったな、あの婆さんにも」  下町は頭を掻《か》いた。 「俺はただ、自分がその年頃の子を持つ父親だったら、もっとうまくやるんだがなあと思って言っただけなのに」 「でも、竹中さんてお宅が、なる程と思ってやり方を変えればそれでいいじゃありませんの」  正子が言う。 「そうなれば文句ないが、へたをするとその親たちと気まずくなりかねない」  下町は肩をすくめた。 「でも、こういう時代は親も子も大変ですよ」  北尾が言った。 「子供の勉強を親が見てやれないんですからね。小学生にしてからが、もうそうなんです。小学生にいなばの白うさぎの話をしてやりますとね、日本には鰐《わに》なんかいないんだよ、おじさん、なんてやられちゃう」 「やられたの、本当に」  風間が面白がって訊《き》く。 「ついこの間、親戚《しんせき》の子にね」  北尾は苦笑した。 「そのくせ、がまの穂ってなあに、ですよ」 「そうか、がまの穂なんて、今の子は知らないんだな」  下町が感心したように言った。 「そう言えば、もうがまの穂なんて十年も見たことがないわ。どこへ行っちゃったのかしら」  正子がふしぎがる。 「教え方がどんどん新しくなるから、古い先生なんかは大変なようです」 「そうでしょうね」 「わたしの友人で、つい去年ですか、高校の先生を定年退職したのがいましてね」  北尾はしんみりした言い方になる。 「先生と言うのも話を聞いて見ると淋《さび》しいもんだそうですね」 「そうでしょうか……」 「ええ。毎年毎年、同じ頃に同じようなことを教室で喋《しやべ》っているんです。そうやっている内に、いつの間にか年を取ってしまって、気がついたら定年が来ていたそうですよ。生徒たちは若いから活気がありますよね。いよいよ定年ということになって、そういう生徒たちを見ていたら、急に大失敗をしたように感じてしまったそうです」 「ほう、どうしてでしょう」 「その友人が言うには、自分が同じ場所を堂々めぐりしていたように思えて来たんだそうです」 「なる程」 「先生として定年を迎えるようになったわけだから、最初のほうで教えた子たちはもう四十過ぎで、大学の先生になった者も大勢いるそうです。社長になったのもいれば、音楽家や建築家として一流になったのもいる。みんな定年でやめる自分よりいい暮らしをして、充実した人生を築きあげているように思えてしまうと言うんです。淋しかったそうです、そう感じた時は」  みんな黙《だま》って考え込んでいた。 「でも、結局そういう人間を育てたのは自分だと思って……納得したそうですがね」  北尾は力のない声で言った。     4  東日本医大の入試にからむ不正を調べてくれと依頼して来たのは、野口昌代《のぐちまさよ》という中年の女で、野口昌代はその調査の目的などについては、下町探偵局に対して何も打ちあけなかったが、偶然《ぐうぜん》のことからその昌代は新小岩の新田病院に働いていることが判っていた。  身もとをはっきりさせない調査依頼は、前金をもらうことになっていて、昌代は正規の料金をちゃんと払ったから、岩瀬はこのところずっとその件にとりかかっていた。  しかし東日本医大と言えば有名な一流校で学生の数もちょっとやそっとではない。調査があまり漠然《ばくぜん》としているので、岩瀬は少々嫌気がさしてやる気を失くしていた。  もうちょっと問題をはっきりさせてくれればいいのに……そう思うのだが相手はいやに気長にかまえていて一向に連絡もして来ない。それで岩瀬はその野口昌代なる女について小あたりに調べてみた。  東日本医大の入試にからむ不正事件、とくれば新聞の見出しにでもなりそうな感じだが、それにしては依頼人の立場が少々、軽すぎるようだった。何のことはない、昌代は新田病院に勤めるただの事務員なのである。  そんな女がなぜ自腹を切ってまで東日本医大を相手にたたかいを挑《いど》もうとしているのだろうか……。もっともその女がたたかいを挑もうとしているのかどうかははっきりとしたわけではないが、岩瀬には何となくそう思えたし、それだけにいっそう不思議だったのだ。  どちらかと言えば下町探偵局のなかで、一番探偵の仕事に性が合っているのが岩瀬であった。国会議員の秘書をしていたときも、秘書の仕事よりもその方面で高く買われていたほどだ。べつに戌年生《いぬどしう》まれというわけでもないのに……。岩瀬自身ときどきそんな風にわが身を思うのだが、とにかく調べ始めるととめどがなくなるときがよくあるのだ。隠されたものの正体を見きわめるまでは、途中《とちゆう》でやめたりすると気持が悪くてしようがない。野口昌代という女の秘密に岩瀬はいまとりつかれてしまっているようだ。  いままで調べたところによると昌代は寡婦《かふ》で、息子が一人いるそうだった。住まいは東新小岩の天祖神社の近くにある高層住宅だと言うことで、岩瀬はそこへ向かっていた。場所はすぐに判った。教えてくれた人物が、わざわざ高層住宅という表現をしたのはまさに正しくて、どうもマンションと申し上げるには気がひけるような、背の高い鉄筋アパートという感じの建物であった。  一階をざっと当たると管理もあまりよくないらしいと判った。岩瀬はエレベーターに乗って六階の十五号室へ向かった。  ためらわずそのドアの前に立って、わきについているチャイムのボタンを押すと、あてにしていなかったのにすぐドアが開いて息子らしい青年が、 「はい……」  と言った。生《な》ま白《じろ》い顔の、気むずかしそうな青年だった。年かっこうは十八、九か。 「消火器はおありですか」 「消火器……」  その子の顔に面倒くさそうな表情が泛《うか》んだ。 「いま消火器の特別販売をして廻っているのですが」  岩瀬の十八番の手だ。九十九パーセント追い返される。それでもドアを開けさせるには一番ぶなんなやり方なのだった。 「要《い》らない」  バタンと邪慳《じやけん》にドアが閉まる。岩瀬は腕時計を見た。十一時近い。  とたんにぴんと来るものがあった。岩瀬はこつこつと靴音を響かせて、ごみごみとした街並が見える吹きさらしの通路を、エレベーターの方へ戻って行った。  浪人。  出がけにみんながオフィスで喋っていたことを憶い出した。年齢はちょうど高校生と大学生の中間ぐらいで、もし大学生なら、その時間に家にいてもおかしいことはないが、岩瀬の勘が、浪人に違《ちが》いないと告げていた。  岩瀬はその高層住宅を出ると近所をぶらぶら歩いてみた。  すると、すぐ近くに中華そば屋があるのに気がついた。プラスチックの営業中という札《ふだ》がぶら下がっている。岩瀬はその店の戸を開けて中へ入った。 「いらっしゃい」 「ラーメンひとつ」 「はいラーメンいっちょ」  店にいるのは頭をちりちりに縮らせた二十歳ぐらいの若い男だった。岩瀬はその男にとっておきの笑顔を向ける。時間が早いから他に客はいなかった。 「こないだ出前をとってもらって食べたらとてもうまかったんで、どこの店のラーメンだって訊いたら、この店だって言うから」 「へえ……」  店員は照れたように笑って、岩瀬の前へ水の入ったコップを置いた。 「いいなあ、このへんではこんなうまいラーメン屋があって出前をしてくれるんだから」 「このへんの人じゃないの……」 「うん」 「いつもよほど不味《まず》いラーメンばかり食わされてんだね」  店員はそう言うと急に声をひそめ、 「うちの、うまいだなんてさ」  と笑った。 「うまいよ」  岩瀬はむきになったように言った。 「じゃ、五郎さんが来て手伝ってくれたときかな」 「五郎さんて……」 「この本店みたいな店の人さ。そこのはうまいんだ。立石《たていし》のほうだけどさ。同じ材料使ってるのにまるっきり違うんだから、やんなっちゃうよね」  時間が早いから、ラーメンが出てくるのも早い。 「はいおまち……」  その若いのが岩瀬の前へラーメンのどんぶりをちょっと乱暴に置く。 「早いのがまたいいね」  岩瀬は、時《とき》そばのようだ、と自嘲《じちよう》しながら割箸《わりばし》を二つにした。胡椒《こしよう》をかけて割箸で麺《めん》をつまんで、二、三度上下をひっくり返してから、ズルーッ……と音をたててすする。 「そうだ」  麺を噛《か》みながら箸をあげて、若いのに言う。 「あそこの六百十五号、このごろよく出前するのかい」  近くに高い建物はないから、それですぐ通じる筈だった。若いのは、調理場との境のハッチのところに片肘《かたひじ》をかけ、膝《ひざ》を貧乏ゆすりしながら気軽に答えた。 「六百十五号……ああ、野口さんね」 「そう野口さん」 「あそこは毎日だよ、でもさ、ちょっとかわいそうなんだ」 「どうして」 「いまどこだって二つ以上じゃなければ出前しないだろ。けど、あそこのうちはいつもひとりだけじゃない。ラーメンとチャーハンとか、ラーメンと餃子《ぎようざ》とか、そういうふうに二コずつ電話して来るけどさ、ほんとは食いきんないときだってあると思うよ。これでも案外判ってるんだ」  若いのはそう言ってにやりと岩瀬を見た。 「大変だなあ、あの子も」  岩瀬は頷《うなず》きながら言う。 「二度すべって、これで三年目だってさ。なんでそうまでして大学へ行くのか判んないよ」  中華そば屋の店員はそう言って肩をすくめた。     5  勘がぴたりと当たって、作戦が思いどおりうまくいって、岩瀬の動きに勢いがついたようだった。区役所の戸籍係へ行って野口昌代の書類をすぐ手に入れた。息子の名は弘治。昌代は離婚でもした女かと思っていたがそうではなかった。夫と死別している。夫に死なれてから半年ほどして母子ともども旧姓に戻っているのだ。  岩瀬は区役所のロビーの椅子《いす》に坐《すわ》って、その戸籍|謄本《とうほん》を何度も読み返した。  つまりこれは嫁《とつ》いだ家から追い出されたということになりはすまいか……岩瀬はそう考えた。 「なるほど」  岩瀬はそうつぶやくと、書類を上着の内ポケットにしまい、たちあがった。昌代の死んだ夫の名は待田志郎《まちだしろう》と言う。今度はそっちを当たってみる必要がありそうだった。  国電に乗って引き返し、両国を素通りして山手線に乗《の》り換《か》え、五反田《ごたんだ》へ向かう。  五反田へ着いた岩瀬は、電車を降りるといきなり昌代の嫁いだ家の正体を知ることになった。  山の手総合病院、という大きな看板《かんばん》の文字の下に、院長医学博士待田|恭一郎《きよういちろう》という名前があったからである。 「ちきしょうめ」  岩瀬は喜びとも舌打ちともつかないつぶやきをもらして、その病院の方へ歩いて行った。看板を見たとたんに、おおよその絵が理解できたのである。  野口昌代はその大病院へ嫁いだのであろう。待田志郎というのは院長の息子か何かに違いない。弘治という男の子が生まれてすぐ、その待田志郎が死んでしまった。でかい病院で、その待田家の資産も大したものだろうから、きっと財産のことなどもからんでいたに違いない。昌代は夫の死後ていよく追い払われ、以来今日まで女手ひとつで息子の弘治を育てて来た筈だった。  何としても子供を医者に育てて見返してやりたい。  昌代のそんな執念が、内ポケットに入れた昌代たちの戸籍謄本を通じて、岩瀬の胸へひびいてくるようであった。  しかし肝心《かんじん》の弘治はいよいよになって二度も受験に失敗した。恐らく経済的なこともあるのだろう。もう母子のがんばりも限界へ来ているのかもしれなかった。この次またすべったら、もう昌代の夢は永久にかなえられることはなくなるのかもしれない。 「そうなったら……」  岩瀬は広い前庭のついた、予想以上に豪勢なその病院の前にたたずんで、ひとりの女の二十年近い孤独なたたかいの日々を思った。  もし弘治という子が次もしくじったら、昌代はどうなるのだろう。意地も張りもそこでばっさりとやられてしまうのだ。いったい何のための二十年か……そう思うに違いないだろう。いや、昌代はすでにその最後のときの準備をしているのかもしれない。待田家に対してはもうときが経過しすぎている。いまさら待田家に対してどうこうするわけにはいかないのだ。だが復讐《ふくしゆう》はしたかろう。弘治がすんなり東日本医大へ入学できていれば、それが昌代にとって充分な復讐になる。だが、それができなかったとき、昌代は新たな復讐に向かって足を踏み出さねば、生きる目当てもないのではあるまいか。  岩瀬は東日本医大の調査について、いちおうそのように納得した。  岩瀬が調査マンとしての喜びに心をふるわせるのはそういう瞬間であった。人それぞれが持っている人生の秘密。それが覗けるのだ。縁もゆかりもないからこそ、よけいにその秘密を覗いたときの驚きは純粋であった。  人間とは何とややこしい生き物なのだろうか。人生とは何と複雑で微妙《びみよう》な景色を持っているものなのだろうか。岩瀬はただその前に立って感嘆しているのだ。それはグランドキャニオンを初めて見た観光客の感嘆と同質のものであるようだ。岩瀬は感嘆し、しばらくそこに立ちつくしたあと、また次の秘境へ向かって調査の旅を続けて行く。恨《うら》みも復讐も憎悪も、そんな岩瀬にとっては少しも醜《みにく》いものではなかった。不毛の砂漠にも感嘆し、延々と続く断崖絶壁にも感嘆するのだ。  その日岩瀬はなぜか昌代|母子《おやこ》に味方したい気分になっていた。それはたぶん、彼の子供が幼稚園に行ける行けぬで頭を悩ませていることに関係があったのだろう。岩瀬はその足で待田家の戸籍を見に行った。  よぶんなことかもしれなかったが、何か新しい発見がある筈だと思っていた。     6  夕方近くなってまた下町探偵局へ現われた印刷屋の婆さんは、下町が案じた通りぷりぷりしていた。 「冗談じゃないわよ。そりゃあたしはおせっかいかもしれないけどさ」  婆さんはそう言って下町の前の椅子にばたんと坐った。 「どうしたんです」 「メリヤス屋の竹中よ」  すると下町は正子の顔を見て、 「ほらやっちゃった」  と言った。 「何がほらやっちゃったなのよ」  婆さんは下町にくってかかる。 「だからとめたのに」  婆さんはそう言われて返事につまり、一瞬口をへの字にしたがすぐ態勢をたて直した。 「それだけの親切ごころがあるんなら、なんでもっとはっきりとめてくれないのよ。どっちでもいいようなとめ方して」 「まいったな、これは」  下町は閉口して顔をなでた。 「まあ聞いてよ」  婆さんは機嫌を治して喋りはじめた。 「他人の家のことに口を出すなって、いきなりはっきり言うのよ。あたしの意見なんて全然聞こうともしないんだからね。仮りにその通りだったとしてもわたしの家はわたしの家、間違おうと転ぼうと人さまのさしずは受けません、てさ」  下町は笑った。 「それはまた手きびしくやられたもんですね。そばにいたかったな」  婆さんは下町をにらんでから続ける。 「そのあとの言いぐさがいいのよ。どう言ったと思う」 「さあ」 「だいいち、うちの子はそんなに深く物事を考える子じゃありません、だってさ。深く考える子じゃないから大学もすべったわけよね」  婆さんはそう言ってケタケタと笑った。 「そいつはけっさくだ」  下町も正子と顔を見合せて笑った。 「でもさ、何と言っても命をとりとめてよかったわよね。あのまんま馬鹿息子が死んじゃったら、竹中のところと喧嘩《けんか》したうえにお葬式の世話までしてやらなけりゃならないところだったもの。でも所長はいいこと言うね。竹中のところは判らなかったみたいだけど、あたしはほんとに感心しちゃった。たしかに親なんてそんなものよ。子供に向かって、お前のためだお前のためだって言いながら、本当は自分の都合を子供に押しつけているんですものね。それじゃあ子供だって、なに言ってやがんだい、とこうなっちゃうもの」 「かと言って、他にうまい言い方もなかなかないでしょ。みんなそれで苦労しているんですからね」  下町はそう言って溜息《ためいき》をついた。 「でも、考えてみるとうちの子たちはそんなに難しくなかったなあ」  婆さんはそう言って追憶するような目をした。 「自殺しようなんて子は一人もいなかったもの」  すると正子が、 「ほんとにみなさんお丈夫」  と言った。 「なによ、その言い方は」  婆さんはあきれたように正子を見つめた。  トントントンと軽い足音がして、風間が帰って来た。 「これを見てみな」  そう言って手にした夕刊をひょいと正子に放《ほう》る。 「なあに……」  正子は渡《わた》りに舟《ふね》とばかりに、素早く夕刊をひろげた。 「救急車でたらい廻しにされた奴の父親が、断わった病院の院長を刺し殺しちゃったんだ」  風間がそう言うと、 「どれどれ」  と下町が席を立って正子のうしろに廻った。 「そんな理不尽《りふじん》なことってあるの……。たらい廻しってば何軒も廻されたわけじゃないの。殺されたのはその中の一人だけでしょ。それともみんな殺しちゃったの」 「いや、ひとりだけ」  風間が教えた。 「それはあんまりよ」  婆さんが口を尖《とが》らす。 「娘がたらい廻しにされて死んじまったんだって。手当てが早ければ助かっていたそうなんだ。父親が怒って半年がかりでその日のことを調べたらしいのさ。そうしたら、その中の一軒の病院の医者が、居留守を使ったことがはっきりしちゃったんだ。小さな病院らしいけどね。それで父親が出刃包丁を持って行ってズブリさ。すぐ自首したそうだよ」 「やりきれんなあ、こういう話は」  下町が席へ戻りながら言った。 「あきらめきれなかったのね、きっとそのお父さんは」  そう言ったとき、ガラガラと下の入口の戸が開く音がして、足音が二人ぶん二階へ上って来た。ひとりぶんは靴《くつ》の音だが、もうひとりは下駄《げた》。言わずとしれた大多喜悠吉である。 「こんちは」  あいかわらず下駄に和服の悠さんはそう言いながら入って来たが、印刷屋の婆さんの姿を見ると、 「あ、いた」  と言った。 「悠さん。何よ、あ、いたとは」  婆さんが聞きとがめる。 「痛いの。いま歯医者から帰って来たところ」  悠さんはしゃらっと言い逃れ、事実少しはれぼったい左の頬を手で押えながら、北尾の席に腰をおろす。 「所長、歯痛《はいた》を止めてくれないかね」 「歯痛を……」  下町はそう言い、すぐ、うさぎ屋へ飲みに行かないかという謎《なぞ》だと気がついたらしい。 「うん、止めてやるよ」  婆さんもその意味を察したとみえ、 「なによ、あんたなんか、たらい廻しで死んじまえばいいんだわ」  と言った。 「コロリ」  間髪《かんぱつ》を入れず、悠さんはそう言って体を横にしてみせた。 「なあんていっちゃって」  体を元に起しながら笑う。 「まだそう簡単に死ぬわけにはいきませんよ。でもたらい廻しでどうやって死ぬのかな」 「患者のたらい廻しのこと」 「ああ、病院の……」 「そう。あの夕刊に書いてあるんだって。たらい廻しにされたほうも死んだけど、廻したほうも殺されたそうよ」 「そういう話を聞くと目が廻ってくる。首は廻んないけどね」 「人ごとだと思って呑気《のんき》なことを言ってなさい」  婆さんにきつく言われて悠さんは舌を出した。 「まったくやりきれない話さ。刺し殺された医者は評判のいい人だったと書いてある。犯人のほうも実直な男だそうだし、死んだ娘さんは評判の美人で、近々、結婚する筈だったらしい。善人ばかりがからみあって二人も死んじまってる」  下町は本当にやりきれないような顔をした。     7  悠さんといっしょに来て自分の席へ坐った岩瀬は、内ポケットから書類を取り出してごそごそやっていたが、 「ちょっと」  と下町に言って、衝立《ついたて》のかげに入った。 「ちょっと失礼」  下町は婆さんにことわって立ちあがる。 「なんだい」 「例の東日本医大の件だけどね」 「ああ、あれか」  二人は向き合って坐った。 「依頼人の身もとが割れたよ」 「そうか」  岩瀬は下町の前に戸籍謄本を置いた。 「ちょっとした探偵ごっこをしよう」  岩瀬がそう言うと下町が笑った。 「ごっこはないだろう俺たちは探偵だぞ」 「まあいいから。それを見てどう思う……」 「野口昌代が依頼人だな。ほう、子供がいるのか、これはええと、うん、大学生か。大学生になっている年齢だな。父親は生まれてすぐ死んだ、か。嫁ぎ先を出て、以来独身ときた。淋しいだろうなあ、こういう家庭は」  下町は自分の境遇を思いあわせたらしく、静かな声になった。 「こっちを見て……」  岩瀬は待田家のほうも渡した。 「なになに……そうか、これが昌代の嫁いだ家の連中か。さて、何のことかさっぱりつかめないぞ」 「昌代の夫は待田恭一郎の弟にあたる。父親の待田重信はもう死んでいるが、息子が四人いて昌代の夫はその一番下だ。昌代は亭主が死んだあと、だいぶ冷たくされたとは思わないか」 「うん、そういえばそうかもしれないな」 「五反田のほうにあるでかい病院の一族だ。次男の子供がおととし東日本医大へ合格している。昌代の息子と同じ歳だよ。そう思ってよく見ると来年は三男の子供が大学へ受験する年齢になっている。長男の待田恭一郎は、いまその病院の院長をやっていて次男も三男も同じ病院にいる医者だ」 「医者の一家か」 「うん」  下町の目がきらりと光ったようだった。 「ひょっとすると、昌代の子供は東日本医大を受けてすべっているな」  岩瀬はニヤリとした。 「さすがだな。そのとおりさ、もう二年続けて浪人している。昌代が調査を依頼した目的がつかめそうな気がするね」 「そうだなあ。昌代っていう女は、たったひとりの子供を医者にしようとして夢中で生きてきたのかもしれない」 「俺もそう思う。ところがおっこちてしまった。同じ年に、いわば本家とも言える待田家の子供が合格しているんだ。さぞくやしかったろうなあ。そして来年はまた待田家の子供のひとりが東日本医大を受けるんだ。またうちの子がおっこちて、向こうの子が合格したらどうしよう。昌代はそう思っているに違いないさ。親の欲目だ、よその子より自分の子が出来がいいと思っているに決っている。でも相手は大病院で、金もわんさとうなっていれば、コネだってごまんとあるに違いない。女手ひとつだから、子供が三度受験に失敗すればもうお手あげなのじゃないかな。昌代はその恵まれた一族に、必死でいどみかかっているのさ。十七年も十八年も、本家を見返してやれる日が来るのを……それだけを心の支えに歯をくいしばって生きてきた筈だ。もとの野口姓に戻るとき、いくらかのものはもらったにせよ、いまでは茂木君のお爺《じい》さんが入院している病院で事務の仕事をしている。楽なわけがないさ」 「でもわからんな」  下町は陰気な声で言った。 「昌代の考えはたぶんこうだろう。もしまた子供がすべって相手が受かったら、裏口入学の証拠をつきつけてやろうというんだろう。自分の子と同じ年の待田家の子が裏口入学したのを、昌代はきっと知っているんだ。みていろ、受験シーズンになったら昌代はきっとターゲットを明らかにしてくる筈だ。いくら縁が切れたと言ってもそういう関係はどこかでつながっていて、おたがいに相手の様子が判るものだからな。岩さんは親の欲目だと言ったが、昌代はかなり正確に先方の子供の成績なども知っていると思うよ。自分の子供のほうがずっと成績がいいんだろう。だから相手が裏口へ手を廻す筈だということを確信しているに違いない。  でも岩さんが仮りにその証拠をつかんだとしても、はたして昌代は待田家の子供を東日本医大から追い出すことができるだろうか。そんなことできっこないんだ。それなのになけなしの金をはたいてまで俺たちに調べさせようとしている。いったい当の受験する本人のことはどうなんだ。昌代は自分の子供のことを考えてやっているのだろうか。一発で入れればそれにこしたことはなかったが、二度三度とすべるんじゃ東日本医大に固執《こしつ》する必要もあるまいに。その子がかわいそうだよ。俺はいっそのこと来年もだめで、その子が人生の針路を変えることを期待したいね。昌代だってその執念を捨てさえすればずいぶん楽な筈だ。待田家から持って出たものの中から、その子の入学金に相当する分を後生大事に使わないでいるんだろう。東日本医大の入学金なんてなまやさしい金額じゃないじゃないか。母と子が、その金で少しはほんのりとした生活が送れるといいんだがなあ」  下町はそう言うと書類を岩瀬に返し、 「いずれにせよ、これで調べやすくなったわけだ」  と言ってたちあがった。悠さんと婆さんと正子が風間の席に新聞をひろげてひとかたまりになり、医者の刺殺事件についてさかんに議論しているところだった。  街にはそろそろ冬が近づいていた。下町はときどき悠さんとうさぎ屋でおだをあげたりしているうちに、やがて年の瀬を迎え、金と仕事を追ったり追われたりしているうちに、いつしか野口昌代のことを忘れてしまった。野口昌代は途中で腰くだけになったようなかっこうで、連絡を断ってしまったからだ。でも春が近づいて、岩瀬が急に思い出し、東新小岩へ足を向けたとき、その母子はもう姿を消してしまっていた。  野口弘治が東日本医大に合格したかどうか、岩瀬たちにはそこまで調べる責任はありはしなかった。  第四話 街の祈り     1 「あら、お婆ちゃん」  両国駅の改札口を出ようとしていた正子は、うしろから印刷屋の婆さんに背中を突つかれてそう言った。 「お早う」 「お早うございます」  二人は挨拶《あいさつ》し合って改札口を出た。 「寒いわね」  と、となりの婆さん。 「ほんとに」  正子は左脇にハンド・バッグをはさみ、両方の手を胸の前で合わせながら肩をすくめた。 「昔なみの寒さだよ、これは」 「そうですね」 「おとといは雪も降ったし。これで冬のお天気だけは昔なみにかえる気かしら」 「シベリアのほうに寒気団があるんですって」 「知らないね、そんなことは。昔から冬は寒いものなんだよ。だいいち、お天気のことになるとすぐシベリアなんて言うけどさ、シベリアってどこよ」 「秋田のずうっと左のほう」 「秋田の左ぃ……」  婆さんは立ちどまって正子をみつめた。 「あら、違ったかしら」  正子は柄にもなく可愛《かわい》らしげに小首を傾《かし》げる。 「秋田の左って言うと」  婆さんは思い出すような目になり、 「ばかね。それじゃ白頭山《はくとうさん》のほうじゃないのよ」  と笑った。婆さんくらいの年齢は、今の日本人の中で一番大陸の地図と馴染《なじ》んでいるのだ。歩き出しながら言う。 「白頭山と来れば豆満江《とまんこう》よ。牡丹江《ぼたんこう》に松花江《しようかこう》・吉林《きつりん》・哈爾浜《はるぴん》」 「わあ、よくご存知」 「左のほうとなると、これでも少し詳しいのよ」  婆さんは威張っている。 「あっちのほうは凄《すご》く寒いんですってね」  正子はそう言い、やっと婆さんの持っているものに気付いた。 「あら、そうだったんですか。亀戸《かめいど》へ行ってらしたのね」 「うん、そう」  婆さんは〈うそ〉を顔の前へぶらさげて見せた。 「うそ替《か》えだったんですね」 「今日よ。でも、受験生なんかが多くなっちゃったから、これを買うのも大変」 「そうなんですね、もう二十四日なんですねえ」  正子はしんみりと言った。同じ土地で育ったから、婆さんにも正子の感慨はよく通じている。 「うそ替えだものねえ、もう」  そう言って、うそをしみじみと見た。  亀戸天神のうそ替え神事は、一月の二十四日である。もともとの由来はとにかく、去年買った檜《ひのき》の一刀|彫《ぼ》りの〈うそ鳥〉を神前に奉納《ほうのう》して、新しいのとトリ替えれば、去年のことはウソとなり、トリどく、やりどく、願いどく、祀《まつ》ってあるのが学問の神様だけに、受験などには、霊験あらたか、とこうなるのであった。  とかく一月の行事は新年のめでたいずくめなのが、亀戸天神のうそ替えとなると、二十四日でもう松よりは梅に近く、何やら上野駅から夜汽車に乗って、大宮あたりを過ぎたような感じになる。あとには戻れず行先は遠い。病気に借金兄弟喧嘩、またこの年も嫌《いや》なことがどっさり待っているのだろうなあと思うと、そのうそ替えで新年の気分がひどく遠いものに思えて来るのであった。  そんなわけで、二人とも多難な前途に思いを馳《は》せるものだから自然に口数が少なくなって、 「じゃあ」  と短かく言っただけで正子は仕舞《しもた》屋風の入口の戸をあけて別れた。  二階のオフィスへあがってドアをあけた正子は、今度は、 「まあ」  と言って目を丸くした。部屋の中はむっとするほど暖気がこもっていて、石油ストーブの上に置いた金だらいから、湯気がもやもやと立ちのぼっている。 「どうしたんですか、所長」  下町誠一はセーター姿で屈伸運動をしていた。 「お早う」 「ええ、でもほんとうにどうしたんです……」  正子はわけが判らないまま微笑《びしよう》を泛《うか》べ、厚ぼったいコートを脱いだ。 「どうだ、たっぷりあたたまってるだろう」  下町は得意そうに言う。 「寒いから、君が来るまでに部屋を暖めておいたのさ」 「まあご親切に」  正子はニヤニヤした。 「でも、それじゃ折角のお天気が」 「雨になると言うんだな」 「ええ」 「どうして珍しいことをすると天気が変ると言うのかな」 「さあ。でも昔からよくそう言いますね」 「どうでもいいさ。早起きをするといい気分だ」 「毎日なさってください」 「それがうまく行けばな。自信がないよ」  下町は屈伸運動をやめた。 「ゆうべも寒かった」 「あら」  正子は下町を睨《にら》む。 「あんな寒いのに、飲み歩いたんですか」 「そう。悠さんが新宿へ行こうと言ってきかないんだよ」 「好きですねえ、お二人とも」 「お湯も沸《わ》かしてあるよ」  下町はポットを顎《あご》で示した。 「すみません」 「新宿で、例の森かおりさんの孫が店をやっているんだ」 「へえ、そうなんですか」 「おばあさんのような歌手になろうとしたらしいんだが、失敗したそうだ」 「何という名前ですの」 「芸名森あゆみ。あの声じゃ歌手は無理だな」  下町は何を思い出したのか、ウフフ……と笑った。     2  二十分後にはオフィスに全員の顔が揃《そろ》った。 「久しぶりだな」  下町は四人の顔を眺めながら言った。新年そうそうから仕事がいそがしくて、全員が出社時間にきちんと顔を揃えるのは珍しかったのだ。 「そう言えばそうだな」  岩瀬はひとりごとのように言い、下町と同じように仲間を見まわした。 「所長はご機嫌だ」  風間が言う。たしかに下町は常になく晴ればれとした顔をしていた。 「ゆうべ新宿へ行ったんですって」  正子が告げ口のように言う。 「悠さんとだな」 「そう」 「でもそのせいじゃなさそうだぞ」  岩瀬はニヤニヤしながら新聞をひろげた。 「悠さんと飲んだくらいではあんな顔になりはしない」  ひろげた新聞で顔をかくしてそう言った。 「そりゃそうですよねえ」  北尾が楽しそうに笑った。 「仕事が順調にいっていれば、これ以上うれしいことはありませんよ」  すると風間が、わざとぶち毀《こわ》すような言い方をした。 「それも今日でおわりか。こうして顔が揃うってことは、順調だった仕事も一段落したと言うわけだものな」 「仕事のことじゃあるまい」  岩瀬は新聞にかくれたまま言う。 「あら、それじゃ何かしら」  すると新聞を持っている左手が動いて、岩瀬の小指がひくひくと踊った。 「女……ほんとそれ」  風間が騒いだ。 「そうかあ、道理で珍しくさっぱりした顔をしてると思った」 「おいおい」  下町は半ば本気でうろたえたようだった。 「そんなんじゃないよ」 「やあ、所長が照れてる」  四人がいっせいに笑った。 「早起きしたせいだよ。ただそれだけのことだ」  下町は憮然《ぶぜん》としていた。 「女が出来たのなら、もっともっとすっきりした顔をしてるさ」 「あんなこと言って」  正子までがからかっている。 「それより風間」 「はい」 「今何と言った」 「え……」 「道理で珍しく顔がさっぱりしてる、だと」  風間はエヘヘ……と笑って誤魔化《ごまか》した。 「俺《おれ》、いつもそんな薄汚れた感じか」  岩瀬が笑った。 「やっぱりそうだ。自覚してないんだ」 「冗談《じようだん》じゃないぞ。道理で近頃女が寄りつかないと思った」 「そう。毎朝もっと叮嚀《ていねい》に洗ってれば少しはモテるかも知れない」 「ばか言え。顔を洗ったからと言って、急にモテたりするか」 「鰯《いわし》の頭《あたま》も信心からと言いますよ」  北尾が言うと下町は閉口したように手を振《ふ》った。 「北さんまで……もうよそうぜ」  みんなは笑いながらそれで打切ることにしたようだった。 「亀有《かめあり》の離婚問題はあれ以来何も言って来ませんか」  北尾が自分の担当していた仕事のその後の成り行きが気になるらしかった。 「何も」 「はあ……」  北尾は拍子抜けしたように左手で頬《ほお》のあたりを撫《な》でた。 「俺たちは調査するだけさ。機械的に調査して事務的に報告する。そのあとのストーリーがどうなろうと関係はないんだ」 「そうはおっしゃいますが、どうもわたしは気になるタチでしてね。ことに亀有の件は気になりますよ。奥さんがご亭主に疑われた。でも何でもなかった。たしかに綺麗《きれい》な人だけど、行《おこ》ないのほうはそれ以上に綺麗だったんです。わたしの報告を本当に信用してくれたんですかね、あのご主人は」 「気持は判りますがね、北さん」  下町は笑った。 「気にしても仕方がないでしょう。我々は先方の人間関係に介入なんかできないんですからね」  北尾は溜息《ためいき》をついてお茶に手を伸ばした。 「辛いですなあ」  みんな笑い出した。 「辛いですなあ、はよかった」  と岩瀬が言う。 「本当ですよ」  北尾はムキになる。 「やましいところがないのに疑われるなんて」 「北さんはいい人だな」  下町が言った。 「世の中を随分綺麗なものに見てる。ねえ北さん、賭《か》けてもいいですよ」 「賭ける……」 「ええそうです。そういうケースでは、旦那のほうに何かあるにきまってるんです」 「浮気……」 「そうかも知れない。奥さんをとりかえたがっているとかね。でなければきっと仕事がうまく行っていない。会社などを経営しているとしたら、必ず業績が悪化しているか、または悪化することが目に見えている状態ですよ。どこかに勤めているとしたら、最悪の場合、遣《つか》い込《こ》みとか……」 「そんなもんでしょうかねえ」  北尾はがっかりしたようだった。 「嘘《うそ》だと思うなら調べてごらんなさい」 「え……」  この下町探偵局としてか、と言うような顔で北尾は下町をみつめた。 「違いますよ。うちは金にならない調査なんかできませんよ。北さんが自分でやるんです」 「そんなこと」  出来る筈がないと北尾は首を振った。 「でしょう。つまりあれはもう北さんとは縁のない夫婦なんです。だったら気にせずにさっさと忘れることですよ」 「そうか……」  北尾は頭に手をやって微笑《びしよう》した。     3  ガタガタと木の階段を登る下駄《げた》の音。みんな誰《だれ》だかもうとうに判っている。となりの印刷屋の婆さんだ。 「おはよ」  ドアをあけて入って来る。 「いらっしゃい、お婆ちゃん」 「はいはい。それにしてもけさは寒かったねえ」  婆さんは下町のデスクの前の椅子《いす》に坐《すわ》る。何もかもいつも通りで無事平穏なオフィスの雰囲気であった。 「もう会ったんですか」  下町が正子と婆さんを半々に見ながら言う。 「そう」  と婆さん。 「駅で」  お茶をいれながら正子。 「駅で……この寒いのに早くからどこへ行って来たんです」  下町が訊《き》くとかわりに正子が答えた。 「亀戸の天神さま」 「亀戸天神……何で……」 「うそ替えよ、今日は」  婆さんはそう言い、正子の出した茶碗《ちやわん》を、 「ありがと」  と言って取りあげた。 「そうか、もううそ替えか。のんびりしてはいられないな」 「ほんとにね」  婆さんは頷《うなず》いてからお茶を飲んだ。 「初場所がおわってうそ替えに行くと、ほんとにこの年ももう本番だわよ」 「本番だなんて、お婆ちゃんも凄い言葉を知ってんだな。隅に置けないや」  風間がからかうように言う。 「何が隅に置けないよ」  婆さんは茶碗を置いて風間を睨《にら》んだ。 「本番なんて言葉は昔っからあるのよ。あんた何かいやらしい風に思い込んでるんじゃないの」 「いけねえ」  風間は首をすくめ、 「ちょっと煙草《たばこ》を買って来る」  と言って出て行った。 「まったく近頃の若い子と来たら」  婆さんは舌打ちする。 「風間が何を考えたんだか判ってるんですか」 「トルコ風呂のことでしょう」  岩瀬がばか笑いした。 「いやらしいっちゃないんだから」  婆さんは苦々しげに言ってお茶を飲んだ。 「ところでどう……近頃|儲《もう》かってるの……」 「まあまあですね」 「まあまあって、ほんとのところどうなのさ」 「だからまあまあです。ここんとこ、少し調子がいいんですよ」 「やだ、いそがしいの」 「いや、それほどいそがしいってわけじゃありませんよ」 「手が空《す》いてる……」 「ええ」 「よかった」 「どうしてですか」  すると婆さんは折り畳み式の椅子の上に坐り直し、 「今日はお客なの」  と改まった様子で言った。 「お客……」 「そう。仕事の話でうかがったのよ」 「へえ、どんな話なんです」 「調査依頼よ。探偵してもらいたいのよ」 「お婆さんがですか」 「あたしはもうそんな必要なんかない年になってるわ」 「年に関係ありませんよ」 「あらそうかしら。まあいいわ。とにかくここの名探偵さんたちにお願いしたい仕事があるのよ」 「有難うございます」  下町は仕方なく礼を言った。 「今日かあすにでも連絡があると思うの。そしたら先方へ行ってくださる……」 「ええ、よろこんで」 「でも、あたしの顔を立ててよ」 「お婆ちゃんの顔を潰《つぶ》すようなことはしませんよ」 「主力選手を出してね」 「主力選手……」 「そう。下町探偵局のよ」 「なるほど。じゃ僕が行きますよ」 「ええ。それに、人数も多いほうがたのもしいわね」 「そうですね」  下町は苦笑した。どうやら婆さんは本物の調査依頼を持ち込んでくれたようである。 「あたし、ここのことを先方にうんとよく言っちゃったのよ。東京一の探偵だって」 「それはどうも」 「だから、あんまり貧乏臭い恰好《かつこう》で行っちゃ嫌よ」 「はあ」  下町はあいまいに答えて岩瀬や北尾のほうを見た。二人ともニヤニヤしていた。 「ちゃんとネクタイをしめてくれなければ」 「はい判りました」 「岩さんはいつもきちんとしてるからそのままでもいいけれど」 「うへ。俺も行くの……」 「そうだよ」  下町が糞真面目《くそまじめ》な顔で言った。 「探偵というのは秘密のお仕事だからはっきりとは言えないけど、下町探偵局は一流の仕事しかしないんだって」  婆さんも生《き》真面目な表情で言う。 「それはまた……」  下町は目をパチパチさせた。 「調子を合わせてね。先方にそう言ってあるんだから」 「そうですか」  下町は唾《つば》を嚥《の》み込《こ》んでから答えた。 「大きな声じゃ言えないけど、殺人事件なんかが起って犯人がなかなか見つからなかったりすると、警視庁のほうの偉《えら》い人なんかが、こっそりとたずねて来ることもあるんだって」 「そう言っちゃったんですか」  下町が呆《あき》れたように言うと、岩瀬と北尾が笑いこけた。 「本当なんだから」  婆さんは笑う二人を叱《しか》るように睨んだ。 「警視庁とはっきり言わないところがいい。警視庁のほう、だって」  岩瀬は笑いすぎて苦しそうだった。 「いいじゃないか。明智小五郎《あけちこごろう》のつもりで出掛けよう」  下町は笑いを噛《か》み殺して言った。     4  となりの印刷屋の婆さんは、昨日《きのう》そのことで先方の家へ行き、そのまま泊って今朝帰りがけに亀戸天神へ寄って来たということらしかった。  だが調査の内容となると、もったいをつけてなかなか教えようとはしなかった。岩瀬はその内容を婆さんから聞き出そうと、おもしろがってかまをかけたりした。それでも婆さんはなかなか口をわらない。 「帰りに亀戸へ寄ったのなら、その家は平井から先ですね」 「そうよ」  岩瀬はしばらく婆さんを見つめて黙り込んでいたが、適当な間を置いて首をかしげ、 「おかしいな、千葉《ちば》のずうっと手前じゃないか」  と低い声でつぶやいた。 「あら、よく判るわね」 「え……」  岩瀬はとぼけて婆さんの言葉が聞こえなかったふりをした。そしてまたしばらく考え込み、 「なあんだそうか」  と再びつぶやいた。 「判ったの……」  婆さんは薄気味悪そうに岩瀬をみつめた。岩瀬はその視線をはずし、 「市川《いちかわ》」  と早口でさり気なく言った。婆さんは大仰《おおぎよう》に、 「やだあ、どうして判っちゃうのよお」  と驚いた。  べつに岩瀬が当てたわけではない。千葉から平井の間で、いちばんそれらしい勘がした駅名を口にしただけなのだ。婆さんの反応がなければ市川から千葉までずらずらっと駅名をとなえたはずである。 「ねえ、どうして当てられたの」  婆さんは本気で下町に訊《たず》ねた。 「それは名探偵ですから」  下町はしゃあしゃあと答えた。 「さすがねえ。でもどうして判ったのかしら」  婆さんはしきりに不思議がっているが、こういう場合種あかしをするとあとのご利益《りやく》がうすい。 「お婆ちゃんの親戚《しんせき》ですね」 「そうなのよ。死んだ亭主のね」 「ちょっとしたお金持でしょう」 「あらいやだ。そんなことまで判っちゃうの」 「かなりお年の男性と、三十代の終りか四十くらいの人がいますね」  婆さんは、ふうん……と鼻を鳴らし感心しきってしまった。 「あんた、探偵なんかしてるより手相見にでもなったほうがいいわよ。だってすごく当たるんだもん」 「じゃあそろそろ商売がえをしますか」 「それがいいわ。こんなところにいちゃもったいない」  岩瀬は急に立ちあがり窓の外を眺めた。べつに窓の外になにかあるわけではない。笑っているのを婆さんに知られたくないだけなのだ。 「でもやはり餅屋は餅屋ねえ」 「そうですよ」  岩瀬は窓に体を向けたままそう言った。 「そこまで聞けばもうその調査内容もだいたい見当がつきます」 「そうでしょうね。うちとここは隣り同士なんだもの、中山の家のことだって少しは探偵さんたちの耳に入ってしまうでしょうね」  婆さんはそこまで言って急に気がついたように、 「まさかあんたたち近所のことを全部調べあげてるんじゃないでしょうね」  と気色《けしき》ばんだ。 「そんなことするわけないでしょ」  下町はあわてた。 「そんなことをしたって誰もお金を払ってくれやしませんよ」 「それはそうだけど……」  婆さんは疑わしそうな顔で下町を見た。 「それにしても怕《こわ》い人たちね」 「怕いだなんてお婆ちゃん」  正子が心外そうに言った。 「まあいいわ。とにかくあなたたちはそれが商売なんだから、怕いくらいのほうが頼りがいがあっていいわよ。やっぱりあなたたちをすすめてよかった」  婆さんはそう言うと立ちあがり、 「ひょっとするとそろそろ先方から電話がかかるかも」  と言って降りて行った。 「ああびっくりした」  婆さんの足音が消えると正子はそう言って本当にほっとしたような顔になった。 「どうしてああずばずばと当てられるの……」 「君までそんなこと言っちゃこまるな」  下町が苦笑した。 「だって依頼人が市川にいるってことを……」  すると岩瀬は笑いながら自分の席へ戻り、 「べつに当てたわけじゃないさ」  と言った。 「かまをかけたらあの婆さんは千葉の手前だと言った。まあそれは当然だろう。茂木君が出勤する時間に駅で会ったんだからな。たいした用もないのにそれほど人の家を早くに出るわけはないだろう。となれば近間《ちかま》だ。本式の調査依頼をするのなら、食うにこまっている連中でもないだろう。おまけにあの婆さんは、このあたりの古くからの顔役だし、そういう古い親戚が住んでいる場所というと、まず市川」 「なあんだ」 「金持かと尋ねたら、そうだという返事だった。婆さんがでかけて行って泊れる金持の親戚《しんせき》ということを考えると、必然的にそこには老人がいなくてはならない。だが男か女か判らないのでかなりのお年の男性というふうに言ってみた。でもそれが外れるとかっこうがつかないから、それと三十の終りか四十くらいの人がいますねというふうに続けたわけさ。金持の家ならたいてい長男が親といっしょに住んでいる。外れっこないさ。法人関係の調査依頼があの婆さん経由で来るわけがないから、問題は個人の家のもめごとというわけだ」 「おいおい」  下町が岩瀬へからかうような声をかけた。 「え……」  岩瀬が下町を見る。 「どうでもいいけれど、婆さんのおかげで岩さんもちょっとした名探偵気取りだな。絵解きなんかしちゃってさ」  そう言われて岩瀬はがらにもなくひどく照れたようだった。 「いけねえ」  そう言って頭をぽりぽり掻《か》く。掻いてもふけが落ちないところをみると、たいした探偵ではないようだった。 「どっちにしても依頼だけは本物のようだ。婆さんの顔をたてるわけではないが、下へ行って着替えてくるか。警視庁のほうの偉い人が来るかもしれないし」  下町は笑いながらそう言うと、立ちあがって階下へ降りて行った。     5  市川の中山という家から、婆さんのところへ連絡があったのはその日の昼少し前だった。婆さんが息せききってオフィスへ現われたとき、折りよく岩瀬も下町もまだそこにいた。 「あの話、だいじょぶでしょうね」  婆さんはいきなりそう言った。 「ああ市川の中山さんの件ですね」 「そうよ、これから行ってくれるでしょうね」 「ええいつでもいいですよ」  婆さんは下町の胸もとをじろじろと覗《なが》めた。 「ネクタイもちゃんと締《し》めていますよ」  婆さんは、よろしいと言うように黙って頷《うなず》いてみせ、 「じゃあたしも着替えて来るわ。もし迎えが先に来たらまたせておいてちょうだい」  と、オフィスを去りかけた。 「迎えが来るんですか」  岩瀬が尋ねる。 「そうよ」  婆さんは大いそぎで登ったばかりの階段を降りて行った。  それと入れちがいに、だいぶ前に煙草を買いに行くと出ていったままだった風間が帰って来た。 「あの婆さんあれからずうっといままでねばってたんですか」 「ちがうよ。一度帰ってまた来たんだ。お前こそずいぶん長い間さぼっていたじゃないか」  岩瀬がしかるように言った。 「パチンコ、ひさしぶりだったなあ」  風間は机の上へハイライトの箱を積みながら言った。十個ばかりある。 「あらそれパチンコで取ったの」  正子はうらやましそうだ。 「うん」  風間はその中から三個ばかりつかんで正子に渡した。 「これ、お爺ちゃんに」 「まあうれしい」  正子は素直によろこんでそれを受け取った。 「あれから大変だったのよ」 「へえ、何が」 「お婆ちゃんよ。仕事をお世話してくれたの」 「まさか」 「本当よ。これからお迎えが来るの」 「本当ですか」  風間は下町に尋《たず》ねた。 「どうやら本物らしいよ」 「お迎えが来るってのはすごいな」  風間はそう言ったあと、急にうふふと笑い、 「お迎えといっても地獄《じごく》からだったりして」  と舌を出した。  そのときガラガラと下の格子戸が開く音がした。靴音がゆっくり二階へあがって来る。落着いていて正確な歩調である。オフィスの四人は近づいて来る靴音を聞きながらたがいに顔を見合せていた。  ガタンと、ドアを開けて姿を現わしたのは、髪をきちんとなでつけ、黒っぽい背広を着た初老の男であった。なかなか恰幅《かつぷく》もいい。 「こちらが下町探偵局ですか」 「はい」  正子がすこし緊張したような感じで席を立ち、近寄って行った。 「お迎えにあがりました」  慇懃《いんぎん》にそう言う。正子は答えようがなくて下町のほうを振り返った。 「かんじんのお婆ちゃんがまだなものですから、ちょっとお待ち願えませんか。いやなに、着替えをしているらしいですからすぐに来るでしょう」  下町がそう言うと、正子はすかさず折りたたみ式の椅子をひっぱり出し、 「どうぞこちらで」  とその男に勧めた。 「それではわたし、外の車で待っておりますから」  その男はにこやかに一礼するとあっさり階段を降りて行った。 「車……」  岩瀬が下町をみつめてつぶやいた。 「車のお迎えか、すげえや」  風間が窓へとびついた。上の方が素通しになっていて、そのガラス越しに顎を引くような恰好《かつこう》で下を眺める。 「うへ、外車だよ。ビュィックだなあれは」 「ほんとか」  岩瀬も目をまるくして窓へ急いだ。 「なんだおい、あれはハイヤーじゃないか」 「下町探偵局もたいしたもんだなあ。依頼人からハイヤーを差し向けられるとはね」  風間が感心しきった声でそう言った。 「ハイヤーのお迎えか」  下町は隣りの正子にしか聞こえない声で言い、ためらいがちに椅子から腰をあげた。 「はしたないことではあるが……」  そう言いながら、窓のほうへ近寄って行った。 「なあるほど。お迎えはハイヤーでござるな」  正子もやって来て背伸びしながらその車を見た。 「下町探偵局はじまって以来ですわね」  正子はうれしそうに言った。 「なんだか胸がどきどきしてきましたわ。早く毎日ああいう車が出入りするようにならないかしら」 「そうなって欲しいが、出入りするという表現は適当じゃないね。うちの前にあれが一台止まったら道がふさがってどうにもならない」  そんなことを言い合っている最中、隣りの婆さんが下へひょっこり姿を現わし二階を見あげて呼んだ。 「そんなとこでもの欲しそうに眺めてないで早く降りてらっしゃい」  みんな一斉に窓から体を引いたがもう手遅れだった。 「ちくしょう口の悪い婆あだ」  岩瀬がののしった。 「ひとこと多いんだから」  正子もぼやいた。下町は苦笑しながら、 「たしかにもの欲しそうな顔で眺めていたんだからしかたないさ。でも見られたのはちょっと運が悪かったな。……とにかく行こうか、岩さん」  と言って階段を降りはじめた。 「みじめだなあ」  岩瀬はそのあとに続きながらつぶやく。 「そうだな、岩さんはもと国会議員の秘書だから、ハイヤーなんか乗りつけていたんだろうな」 「まあね。ハイヤーなんかどうだってかまわないけど、自分がいじましくなったのと、それにめっきり田舎っぽくなってしまったようで」  そんなことを言いながら二人は板張りの廊下を抜けて表へ出た。 「さあ乗った乗った」  車のそばで婆さんがひとりではしゃいでいる。ドアはもうとうに初老の運転手がにこやかな顔で開けて待っている。 「あたしは真中《まんなか》」  婆さんは岩瀬を先に車へ押し込み、そのあとに続いた。うしろのシートに三人がけになる。  ドアが閉まり、運転手が乗り込んで車が走りだす。下町がふと振り返ると二階の窓を開けて正子が手を振っていた。 「行く先は判っていますね」  婆さんがいやにしゃきしゃきした言い方をした。 「はい承知しております」  婆さんは下町を肱《ひじ》でこづいた。 「どう、いい気分でしょう」  下町は苦笑し、かわりに岩瀬が答えた。 「お婆ちゃんだからまあいいようなもんだけど、こういうのは本当は不用心なんだ」 「あらどうして」 「局の前へハイヤーを横づけにするなんて、アシがつきやすい」  岩瀬は普段使ってもいない局という言葉を用いたし、アシがつくなどと言っていかにも自分たちの仕事を高度なものに見せかけていた。 「いいんだよ岩さん」  下町はそういって笑った。 「あら、そういえばそうだったわね」 「しょっちゅうこんなことしたら、うちの仕事に興味を持つ連中が出て来てしまう。われわれの仕事は絶対に目だってはいけないんだ」 「なるほどねえ」  さっきずばりずばりと岩瀬に当てられたものだから、婆さんは岩瀬が自分の傷《きず》ついた自尊心を癒《いや》すためにそんなことを言っているとは、思ってもいないようである。 「べつに隠しとく必要もないから、だいたいのことを説明しておきましょうね」  婆さんはそう言うと上半身をシートに押しつけ、両わきの男の耳に自分の声が聞こえ易《やす》いようにし、運転手に聞きとられぬような小声で喋《しやべ》りはじめた。 「中山というのはうちの死んだ亭主の親戚で、機械を作るのが商売なの。自分の家と地面続きにちょっとした工場があってね。でも市川もずいぶんひらけてしまって、廻りはびっしり普通《ふつう》の家が建ち並んじゃったから、騒音だとか公害だとか言われて自由に仕事が出来ないでしょう。それでずいぶん前にもっと田舎のほうに広い土地を買ってそっちに工場を移そうとしたのよ。でもおいそれとはいかないからもたもたしてたわけ。そしたら、その土地の廻りにも家が建ちはじめちゃって値段がどんどんあがってきたの。だからここも駄目《だめ》だというわけでもっと先にまた土地を買い替えたわけよ。そんなに東京から離れては、働く人たちだって大変だから、そういう人の住む分の土地まで買ってね」 「なるほど、時期がよかったんですね。それじゃあ土地成金だ」 「そうなのよ、しまいには機械作るのそっちのけで土地を買っては売り、いまじゃ大変な大金持。ところがお金なんて持てば持ったでろくなことは起らないものね。親父《おやじ》が神様に凝《こ》っちゃったの。新興宗教ってやつよ。さあそうなったら手がつけられなくなっちゃって、赤の他人のインチキ神様に、ドンドコドンドコお金を持ち出しはじめたの。  土地の値上りで稼《かせ》いだあぶく銭だから、はじめのうちはそれでも黙って見ていられたけれど、いまではもう正気の沙汰ではなくなってしまっているの。一文無しになったってかまわない、本気でそう言うんだから手がつけられないわよ」 「で、僕らは何をするんです」 「どう諭《さと》したって、親父はてんで受けつけないのよ。だから証拠《しようこ》をつきつけてやらなければいけないわけ。インチキな神様だから、取りあげたお金でどんなことをしてるか想像がつくでしょう。でも素人《しろうと》にはなかなか尻《し》っ尾《ぽ》がつかめなくて困ってるの。そこで名探偵登場と、こういうわけ。  何もその新興宗教をぶっつぶしてくれなんて言ってるんじゃないのよ。中山の親父をインチキ神様の正体に気付かせればそれで充分なの。  どう、そんなこと簡単でしょう」 「ええ」  いきがかりじょう岩瀬はそう答えたが、下町は案外難物かもしれないと思っていた。     6  創造神霊教団。  下町探偵局の今度の相手は、そういう名の得体の知れない怪物であった。  そもそもが、となりの婆さんの持ち込んで来た事件だし、その親戚の当主が金を捲《ま》きあげられると言っても、そう大袈裟《おおげさ》に考えてはいなかった。ところが、市川の中山家へ行って話を聞いて見ると、案に相違して被害額は軽く三億円を超えていた。 「何しろ、親父がその神様を拝むようになって、もうかれこれ五、六年もたっているんです。だから、はじめの頃がどうなっていたか、よく判っていないんです」  中山徳一郎と言うのが問題の当主の名で、年齢は七十二歳。長男の滋行《しげゆき》という人物が、豪勢な応接間でそう言った。徳一郎は外出しており、どうやらその隙を見はからっての会見であったらしい。 「もっと多い可能性もあるんですか」  下町誠一は、できれば悠然《ゆうぜん》と構えて相手の信頼感を増《ま》させたかったが、意外な金額についそう尋《たず》ねてしまった。中山滋行は秀才タイプの男で、図太そうな所はなく、広い額やとがった顎《あご》の辺りの感じが、繊細で複雑な感情の持主であるように思えた。 「三億円というのは、去年一年間の数字です。今年の分はまだはっきりしておりません」 「そんな……」  下町は呆《あき》れた。すると滋行は恥ずかしそうに顔を赤らめ、 「まったく我ながら不甲斐《ふがい》ないのですが、実権は親父が握ったままなんです」  と下を向いた。 「去年の三億円を洗い出すんだって、そりゃもう大仕事だったんです。帳簿だけじゃ判りっこありません。何しろ不動産の売買は、額面通りじゃありませんからね。先方との話合い次第で、馬鹿高い値を表面に出すかと思えば、一般の方が土地を入手されるような場合のように、税金のがれに取引高をギリギリまでさげて見せることもあるのです」  岩瀬が頷いたので、下町はその辺のことを深く訊《き》くのをやめた。多分岩瀬はそちらの方面のことに詳しいのだろう。 「つまりこういうわけですね」  その岩瀬が口をひらいた。 「実権は徳一郎氏が完全に握っていて、しかもそれはかなりのドンブリ勘定をやっていらっしゃる」 「かなりどころか」  滋行は苦笑して見せた。 「ひどいもんですよ。それでも何年か前までは、東日総業という会社を何とか企業らしい形に整えようという気があったようです。しかし今では完全に放棄してしまったとしか思えないんです。帳簿にしたって、ここ数年は故意に混乱させているようですよ。去年の三億円にしたって、取引の関係書類や手数料の受領書のコピー、それに権利書の写しなどから何とか推定したものなんです。実際にはもっともっと……」 「多いんですね」 「親父の脱税を洗ってる気分ですよ。嫌《いや》な気持です。さりとて、だいたいの金額の見当をつけないと話の持ち出しようもありませんしね。それで一年分、やって見たんですが、もうたくさんという気持になりました。倅として親父のそういう金のことを洗いたてるより、あなたがたのような商売のかたにお願いして、そのインチキ神様の正体をつきつけてやったほうが手っとり早いと思ったんです」 「以前から薄々感づいていらしたんですね」  訊き手はもっぱら岩瀬にかわっていた。 「ええ。はじめは悪くないことだと思ったんです。いい年をしてあっちこっちに妾《めかけ》なんか囲うより、信心してるほうがいいにきまってますからね。ところがその内に、何かコソコソやりはじめてたんですね。まだ土地の景気がよかった頃から、不況がはじまった不況がはじまったって、しきりにそう言ってました。まあたしかにそれは当たりましたけれど、実際には私たちに取引がうまく行かなかったと思わせていたんですよ」 「成立した取引をうまく行かなかったことにして……」 「ええ、それで金をひねり出してたんですね」 「そうなんです。しかし、それでもときどき、バカッとでかい奴《やつ》を持って帰りましたから、文句を言うわけにも行かなくてね」 「なるほど。徳一郎氏は実力はあるんですな」  滋行は頷いて見せた。 「神様のおかげかどうか知りませんけど、急に顔が広くなって。残念ながら私などはとてもかないませんよ」 「で、失礼ですが、あなたは……」 「専務です」 「東日総業の専務をなさっていらっしゃるわけですね」 「ええ」  滋行は機嫌の悪い顔つきになった。 「しかし、常務の時山という男が、いわば親父の番頭格でしてね。だいたい私はそういう仕事が性に合わなくて」  滋行はそう言って応接間の壁に目をやった。大きな油絵がかけてあった。 「さっきから拝見してたんですが、なかなか見事な絵ですな」  下町がのんびりした口調で言った。 「そうでしょうか」 「画壇の中堅……いや、それより少し上の人の絵ですね、これは」 「お好きなんですか」 「自分ではどうも……日曜画家と言いたいところなんですが、暇《ひま》もろくにありませんしね」 「やはり油彩《アブラ》ですか」 「ええ。ちょっと拝見していいでしょうか」 「ええどうぞ」  滋行は寛大そうに言った。下町がふかふかのソファーを立って絵の前へ行く。 「S・ナカヤマ……」  驚いたように振り返る。 「これは失礼しました。あなたがお描きになったんですね」  滋行は満足そうに笑った。 「ええ」 「これは大したもんだ」  下町はしきりに感じ入っていた。     7  帰りの車の中。行きと同じハイヤーである。 「ばかだねえ」  中山|邸《てい》から少し離れると、となりの婆さんが待ちかねたように言った。 「ばかだったらありゃしない」  今度は婆さんが一番右側で、下町と岩瀬が並んで坐っていた。 「運転手さん、どこか公衆電話のところでとめてください」  左のドアによりかかるようにしていた下町が、ポケットの小銭をじゃらじゃら言わせながら言った。車はすぐ電話ボックスの前でとまり、下町は自分でドアをあけて出て行った。 「三億円だってさ。ばかを通り越して気違いだよ」  婆さんは岩瀬を見て言った。 「ある所にはありますね」  岩瀬は笑っている。 「人の金だと思ってのんきな顔しちゃって」  婆さんは不機嫌だった。 「あたしゃ恥ずかしいよ。親戚でも金を持っちまうと、もうあたしらとは別の世界の人間になっちゃうもんなんだねえ」 「でもお婆ちゃん、物は考えようじゃないですか」 「どうして」 「一年に三億もドブへ捨てたら、食うにも事欠くのが普通ですよ。いや、こっちは十円玉一枚だって捨てられないというのに」 「ほんとよ」 「それなのに、ちゃんとあれだけの暮らしを維持して行けるんです。痛いには違いないが命とりにはなっていない。ちょっとした英雄じゃありませんか」 「英雄……」  婆さんは意外そうに岩瀬をみつめる。 「俺はやるだけのことはやっている。どこかで胸を張ってそう言い切っている人の顔が見えるような気がしますね」 「ふうん……」  婆さんは感心したように小首を傾げた。 「男だねえ。たしかにそう言われればそんなような気もするわ。稼《かせ》げない奴にはできないことだもんね」 「相手が神様じゃなくて、女だってしようのないケースですよ」  婆さんはケタケタと笑った。 「一年に三億も貢《みつ》がせる女なんて、お目にかかりたい」 「お婆ちゃんは知らないでしょうけれど、女子大生で月五十万円のお手当てのがいるって言いますよ」 「学校へ行ってる内からお妾さんになっちゃうの……まさか」 「年に六百万円。俺もやってみてえや」  岩瀬がつぶやいたとき、下町が車の中へ戻った。 「どうもありがとう」  車は走り出した。 「茂木君に連絡して置いた」  すると婆さんが嬉《うれ》しそうに言った。 「あら、中山の家のこと……」 「ええ」 「有難う。そのくらい気を入れてやってくれると助かるわ」 「ちょうど一段落していた時だし、全員をこの件に投入しますよ」 「所長も現金だわね。すっかり張り切っちゃってさ」  婆さんは満足そうに笑った。中山滋行の提示した調査費は、恐らく下町探偵局はじまって以来の高額になるだろう。父親のあら探しをするのが、滋行にはよほどこたえたようであった。だから金に糸目はつけないと言った感じなのだ。現にもう、下町の内ポケットには、七桁《ななけた》の数字が入った小切手が一枚入っているのだ。もっとも、その先頭の数字は一だが、それでも七桁は七桁である。 「誰を……」  岩瀬が簡潔に訊いた。 「北さんさ。風間じゃ相手にされない」  下町が言うと、岩瀬はウフフ……と笑った。 「北さんなら適任だ。藁《わら》にもすがりたいって顔に見える」  婆さんには判らなくても、二人にはちゃんと通じ合っているのだ。北尾貞吉に最近の新興宗教の動きを当たらせるよう手配したのである。 「今回は風間がデスクだな」  下町がつぶやく。 「そうか、茂木君もはまり役だな」  岩瀬が言い、急にしょげて見せた。 「ねえお婆ちゃん。我々はなさけないですよ」 「あらどうして」 「悩みを背負って神様たちのところへ相談に行くには、みんなちょうどいい顔をしているもの」  婆さんはちょっと考えてから、 「そう言えばそうだわよ」  と大発見をしたように言った。 「で、その創……」 「創造神霊教団」 「それそれ。そこへ誰が乗り込んでくれるの……」 「まだ決めていません」 「どうしてよ」 「どんな相手かはっきりするまではきめられませんよ」  婆さんは黙って頷いた。 「最近はちょっとそのほうに縁がなかったんで判らないんですけどね」  岩瀬が婆さんに説明をはじめた。 「そういうインチキな神様は、お姿を拝見するとだいたいの見当がつくんです」 「へえ、そう」 「山伏《やまぶし》や坊《ぼう》さんのような姿をしている場合は、まあごく普通のインチキ神様ですね」 「どうしてなの」 「神様の役所がありましてね」 「まさか」 「あるんですよ。神社本庁と言いましてね。そこの力はわりと強いんです。だから、神道系《しんとうけい》のスタイルをしている神様は、わりとしっかりしてるってことです」 「神主スタイルは手ごわいのね」 「ええ。たいていは、仏さんとも神さんともキリストさんともつかないような神様で、ひどいのになると大道易者《だいどうえきしや》みたいなのが中心になっているんです」 「神がかりしたんじゃなくて、最初からインチキなのね」 「そういうのなら楽なんですがねえ」  岩瀬はそう言って下町を見た。下町は三億という数字からして、相手は難物らしいと思っていた。     8  北尾の第一報からして不吉だった。 「創造神霊教団というのは大物ですよ」  北尾はその朝、みんなが顔を揃《そろ》えるとすぐ、怯《おび》えたような顔で言った。 「そんなか」  岩瀬は暗い表情になっている。 「ええ。貧乏人なんか相手にしてくれないそうです」 「参ったな、そりゃ」  下町は北尾の顔を見ながら言った。元はメリヤス会社の社長で、それが倒産してからこの下町探偵局へころがり込んで来ている。誰がどう見たっていいかげんな人柄ではないが、億という金を自由にできる顔であるわけがない。 「とにかく、創造神霊教団に接触しないことには話にならないぞ」  そう言うと北尾は責任を感じたらしく、 「いえ、まだ手をつけたばかりですから。頑張《がんば》って見ます」  と答えた。 「その神様は病気を治《なお》すの……」  茂木正子が訊《き》いた。若い風間健一は今度の場合はちょっと使い途がなく、そのかわり正子が町へ出て神様たちの間を歩きまわっているのだ。病気で寝たきりの祖父を背負い込んでいるし、町の神様たちにおすがりするにはぴったりの役柄であった。 「病気のことはあまり聞けませんでしたね」  北尾は首を横に振った。 「あらそう。こっちは病気ばっかりよ」  正子がそう言うと、風間が面白がって訊いた。 「へえ、病気を治してくれるのかい」 「そう。癌《がん》でも何でも治しちゃうのよ」  正子は訴えるように言う。 「所長のとこにパンフレットがあるわ。あたしが集めて来た奴《やつ》よ」  下町はデスクの上のファイルをちょっと持ちあげて見せ、 「呆《あき》れたもんだ」  と、それをデスクへ投げ戻した。 「不治《ふじ》の病《やまい》の治《なお》し代が、たったの三千円から五千円だよ」 「安いもんですね」  風間が笑った。 「うまい仕掛けさ」  岩瀬が憤慨《ふんがい》しているようであった。 「病院へ健康保険証を持って行って治療してもらうのと、保険証なしで診《み》てもらう場合には料金に差があるだろう」 「ええ」 「下町の神様たちは、その差額のちょうどまん中くらいを狙《ねら》っているのさ。本来なら、一万でも十万でも取りたいだろう。また、本当に治るのなら、十万が百万だって安いもんさ。でもそれじゃ客が来なくなる」 「そりゃそうですよ。十万払っても惜しくないと思うには、その神様をよほど信じ込まなくてはね」 「要するに、金を払って行くほうは、手相を見てもらうか、上手なマッサージにかかるくらいの気で行っているのさ。それで効果があらわれなくったって、三千円や五千円なら、やっぱりダメだったですんでしまう。でも、万一ってことがあるんだ」 「万一……」 「そう。万一治ったら大変だぜ」  岩瀬がそういうと、風間は笑いこけた。 「万一の使い方が逆じゃないか」 「そうさ。万一治りでもしたら、その患者や身内の者は、それこそ狂《くる》ったように神様に打ち込んでしまう」 「治りますか……万にひとつでも」  北尾が訊いた。 「気のせいで病気になっている奴もいるんだよ。神様が治してしまう病人は、思ったより多いんだ」 「そんなもんですかね」 「ところが、悪質な神様になると」  風間がまた笑った。 「悪質な神様ってのはいいな」  岩瀬はかまわず続けた。 「そういう風にして信じ込ませた連中を、思う存分食い荒すんだぜ」 「どうやって……」 「たとえば病気を予言するんだ。家族の中に病気にかかりそうな人間がいるってね。このままだと、そいつが病気にかかって一家の前途はまっ暗になるとのたまうのさ」 「それでお祓《はら》いか何かするわけか」 「うん。何だかだと金を捲《ま》きあげる。しかし、捲きあげられるほうは、捲きあげられたとは思わなくなっている。おかげで病気にならずにすんだと感謝するのさ。一度は病人を治してもらい、今度は病気になる所を救ってもらった。二度もあらたかなご利益《りやく》があったわけだから、ますます神様を信じてしまう。自分たちばかりじゃなくて、知り合いに一生懸命PRしてあるくわけだ」 「病気になったらどうするの。嘘《うそ》がバレちゃうじゃないの」  正子が訊く。 「その反対だよ。予言が当たったことになるんだ。神様のおっしゃることはやはり正しかった、ってね」 「なるほど」  北尾が唸《うな》った。 「一度信じさせたらどうにでもなるわけですね」 「そうさ。しかも、このテのものの厄介《やつかい》なところは、全部が全部インチキときまったものではないんだ」 「と言うと……」 「我々は今、醒《さ》めた目で見ているから、インチキ宗教などと言っているが、インチキかそうでないかは、主観的な問題になってしまう。つまり、神様そのものが、本当に自分は神様であり、病気を治す力を持っているんだと信じてしまっている場合が多いのさ」 「そうか、当人はインチキをしている気はないのか」 「うん。そこに信仰の自由という憲法で保障された問題がからんで来る。そうなると、おでん屋の二階に本部を構えている神様が、正統派の教会を、あれはインチキだときめつけても仕方のないことになる。客が来るたびこの世と天国を往復しているような町の神様が、キリストの復活は嘘だと断言したからと言って取締りの対象にはならんだろう」 「でかい問題につながってやがるな」  風間は意外そうに言った。 「人間が何を信ずるかということさ。でかいよ、こいつは」  下町は結論を出すように頷いて言った。 「幻想《げんそう》も妄想《もうそう》も、それを信ずる者にとってはすべて真実なのさ」  オフィスの中が静かになった。     9  みんながオフィスから出て行ったあと、残った風間がつぶやくように言った。 「インチキ神様と言って笑ってはいられないんだな」  下町は帳簿に目を通しながら、 「そうさ」  と軽く言った。 「人が何を信ずるかという問題につながっている。つまり、信仰の自由は言論の自由とおんなじ根を持っているんですね。他人にその神様を信じないほうがいいと忠告はできるが、信じてはいけないと強制はできないのか」 「戦前はそれができたんだ。それを信じろと言われたよ」 「天皇は神様だ、ってですか」 「うん。そうじゃないと言えば処罰《しよばつ》された」 「不敬罪《ふけいざい》……」 「それが、敗《ま》けたら天皇も人の子であるということになった」 「現人神《あらひとがみ》って、町の教祖さまがよく自称したがりますね」 「それを信じるのが正しい時代だったんだなあ、あの頃は」  下町は遠くを見る目になり、 「信じて体当たりしていった人達がいる」  そう言ってまた帳簿に目を戻した。 「君も一度は自分で自分の信ずるものをきめたんだろう」  風間はそう言う下町へきつい視線を送った。 「信じるのは自由だ。しかし、信じるものを選びそこなうと、インチキ神様に金を捲きあげられるようなことになるぞ」 「そうですか」  風間は冷たい声で言った。 「何を信じても個人の自由だ。しかし爆弾はいかん」  風間は何気ない様子で帳簿のページをめくる下町を、じっと睨《にら》んでいた。 「遠まわりでじれったいかも知れんが、この下町探偵局にだって、世の中の役に立つ仕事はある」  下町はそう言うと帳簿をとじ、背筋を伸ばして風間を見た。 「昼飯、何にしようか」  風間はあわてて下町から目をそらし、 「床屋へ行って来ようかな」  と言った。 「ああいいよ、昼まで俺《おれ》は出ないから」  すると風間はペコリと頭をさげ、黙って階段をおりて行った。  しばらくすると下町のデスクの上の電話が鳴った。 「はい下町探偵局です」 「あ、所長ですか」  北尾の声であった。 「創造神霊教の正体が判りました」 「ほう、そうですか」 「中心になっている神様は、タカミムスビノカミです」 「何だって」 「タカミムスビノカミです」  下町は苦笑した。電話でやりとりする話題ではないような気がしたのだ。 「本拠は岡山《おかやま》のほうだそうです」 「ほう、岡山ね」 「ええ。それで、副神として神農黄帝《しんのうこうてい》を祀《まつ》っているそうです」 「神農黄帝……」  下町は眉《まゆ》をひそめた。 「そうなんです」  北尾はどうやら、その二神のとり合わせのおかしさに気付いていないようであった。 「それで、教祖さまはどうなんだい」 「岡山にいるんだそうです。教祖の個人的なことについてはまだ手がかりがないんですが」  当然だろうと、下町は受話器を持って頷《うなず》いた。 「とにかく、東京での主要な信者の名が判《わか》りましたので、これからちょっとそこを当たって来ます」 「どこだ」  下町の言い方がきつくなった。 「白沢経済研究所というのが高輪《たかなわ》のほうにあるんですよ。電話帳で今みつけた所です」 「北さん」  下町は早口で言った。 「すぐ引きあげて来てください」 「え、どうしてですか」 「とにかく行動を中止してもらいたいんです」 「はあ……」  北尾は要領を得ない返事だった。 「その高輪の所へは行かないように」 「はい。それじゃ一応引きあげます」 「そうしてください」  下町は念を押すように厳しい声で言って、受話器を持ったまま指で電話を切ると、ダイアルをまわしはじめた。  目をあげて呼出音を聞いている。 「あ、もしもし」  相手が出たらしい。 「恐れ入りますが、そちらさまに岩瀬と申す者がお邪魔《じやま》しておりませんでしょうか」  どうやら岩瀬を呼んでくれているらしい。 「あ、岩さんか、俺だ。ちょっと面倒になって来たぞ」  受話器の奥から岩瀬も同じようなことを言っていた。 「こいつは厄介《やつかい》だ。となりの婆さんにえらいものをしょわされちまったようだ」 「北さんからたった今連絡が入ってね。東京の信者の一人が判ったからそこへ行くと言うんだ。どこだと思う……」 「永田町《ながたちよう》か平河町《ひらかわちよう》あたりだろう」 「さすがだな」 「こっちもたった今判った所さ。で、北さんはどこへ行くって……」 「高輪の白沢経済研究所」  岩瀬の、ウヘッ、と言う声が聞こえている。 「行かせたのか」 「ばか言うな。やめさせたさ」 「参ったね。俺たちの手には負えそうもない」 「帰って来られるか。やり方を変えなければならない」 「そうだな。すぐ帰る」 「全員引きあげだよ」  下町はそう言って電話を切った。 「こいつはやり直しだ」  下町はそうつぶやくと、参っただの厄介だのと言ったにしては、ひどく浮々とした様子で立ちあがり、部屋の隅の書棚から大きな地図帳をとってデスクへ戻った。 「何か仕掛けがあるはずだ」  またつぶやきながら千葉県の地図をひろげた。     10  トントンと軽い足音をたてて風間が戻って来た。 「どうした、床屋へ行かなかったのかい」  下町が微笑を泛べて言った。 「考えて見たんですよ」  風間はぶっきら棒に答えて自分の椅子に坐った。 「過激派の爆弾屋に見られちゃかなわないから、髪を短かくしようかと思ったんだけど、俺には俺の役まわりがあると思ってね。こういう長髪でないと怪しまれる場所もあるから」 「そうだな」  下町と風間はそれっきり何も喋らないでいた。  小一時間すると、外の道へ車が停る音がして、岩瀬が帰って来た。 「あれ、北さんは……」  オフィスを見まわして言う。 「もう帰って来る頃だ」  下町は何かしきりにメモをしていたが、顔をあげ、ボールペンをほうり出して椅子の背にもたれた。 「何だ。タクシーで急いで来たのに」  岩瀬はガタガタと椅子《いす》を鳴らしながら言った。 「へえ……」  風間はいつもの表情に戻っていて、坐《すわ》った岩瀬の顔をのぞき込むようにした。 「何かあったんですか」 「方針変更だ」  岩瀬は下町を見ながら言った。下の入口の戸があいて、足音がふたつあがって来る。 「茂木君も帰って来たようだな」  下町は足音に耳を傾けて言った。 「ただいま」  北尾と正子がオフィスへ現われた。 「駅で一緒になったんです。同じ電車だったのね」  正子が言った。 「いったいどういうことなんですか」  北尾は好奇心を隠そうとせず、席につくやいなや下町に尋《たず》ねる。 「全員|揃《そろ》ったな」  下町はみんなの顔を見まわした。 「どうやら創造神霊教というのは、そこいらの貧乏神様とはわけが違うようだ」  北尾が頷いている。 「方針を変更しなければならないんだよ」  みんな黙って聞いていた。 「北さんが調べた所によると、創造神霊教団の本拠地は岡山にあって、東京での主要なメンバーの中に、白沢という人物がいるそうだ」 「白沢一馬《しろさわかずま》という人です」  北尾が言った。 「白沢一馬は白沢経済研究所というのをやっている人だね」 「ええ」 「その白沢なら俺や岩さんはよく知っている。いや、よく知っているというのは正確でない。よく噂《うわさ》を聞いていると言った程度さ。白沢のことをよく知っていると言える人物はそう多くないからな」 「白沢一馬って、聞いたことある」  風間が厳しい表情で言った。 「黒幕じゃないですか」 「黒幕……」  北尾は知らなかったらしい。 「老人だよ。戦争に敗けた頃、もう大物だった」 「政財界の黒幕って奴ですよ」  風間が早口で北尾に教えた。 「へえ、そうなんですか」  北尾は呆《あき》れたようだった。 「右翼なんだけど、悪いことばかりやってやがる」  風間は憎《にく》らしげに言った。 「一部の人間にはひどく憎まれている」  下町はそう言う風間へ微笑《びしよう》を向けていた。 「だが反対に、白沢なしではうまくやって行けない連中もいる。憎んでいるのは力のない者が多いが、頼りにしているのは大きな力を握っている連中さ」  風間は言い負かされたように舌打ちをした。 「いわゆるインチキ宗教は、なぜ神道風《しんとうふう》の教義を持って来ることを避《さ》けるか、考えて見たかね」  下町はみんなを見まわして言った。 「神社本庁とかいうとこが喧《やか》ましいからでしょう」  正子が代表して答えた。 「さっきちょっと風間君と話したことだが、例えば自分は天照大神《あまてらすおおみかみ》の生まれかわりであると称しても、今はどこからも咎《とが》められる世の中じゃない。本人がそう信じる以上、仕方のないことになっている」 「信仰の自由ですか」 「ああ。たとえば結婚して新しく本籍地をきめるような時でも、今は皇居の中の所番地を使っても役所はちゃんと受付けてくれるんだ。しかし実際には、町の神様たちは山伏《やまぶし》とか僧侶《そうりよ》とか、そういうスタイルを選んでとることが多い。これは神様なりに他の神様とのトラブルを避けようとしていることではないだろうか」 「ということは、或る神様の形をとると、文句をつけて来る人たちがいるということですね」  北尾は戦前のことを知っているから、判りが早かった。 「どうもそういうことらしい」  岩瀬が頷いた。 「白沢一馬という人が、その方面のボスなんですか」 「さあ」  下町は岩瀬と顔を見合せて笑った。 「そこまでは判らない。しかし白沢はとほうもない力を持っている。仮りにその白沢が特定の宗教団体をバックアップしたとしたら、その神様がどんな教義を持とうと、どんなスタイルをとろうと、どこからも苦情は来るまいね。それは確実に言えるよ」 「いったい、白沢一馬って……」  北尾は薄気味悪そうに岩瀬を見た。 「たとえば総理大臣が入れかわるような時、その政権交代の楽屋裏には必ず白沢の姿があると言われているんですよ。しかも、一番いい部屋にね」  北尾は首をすくめた。 「わたしはそんな人のオフィスへ行こうとしてたのか」 「だからとめたんです」  下町はそう言って笑い、 「どうも、中山家の我々に対する要求は、ちょっと違っていたようだ」  と、確信のある表情で言った。     11 「中山滋行という人は、我々にまだ正確な情報をくれていない」  下町が言う。みんな真面目《まじめ》な顔で聞いていた。 「父親の中山徳一郎がこの数年、どんな取引をしていたか、この場合正確に教えてくれるべきなのだ」  下町はさっきの地図帳をひろげた。 「が、それとなく言っているようでもある。彼は何個所か父親がその教団へ献金する為の資金源に使ったらしい土地の名を喋《しやべ》ったが、よく見るとその土地は明らかに一定の方向へつながっている。千葉県の海岸ぞいから陸へ入り込んでいるんだ。その延長線上には、新しい空港がある」  風間が口笛を吹いた。 「新しい道路計画があるな」  岩瀬も言う。 「これはまだ俺の想像に過ぎないけれど、ひとつの絵が描ける」  下町はニヤニヤしながら言った。 「一代で財をなした老人が、何かで新興宗教の教祖さまに接触することになった。その教祖をとり巻く人々は、みな大物ばかりだ。我々が知っているような、薄利多売《はくりたばい》式のインチキ神様とはわけが違う。功成り名遂げたつもりのその老人は、教祖さまよりも信者の大物たちを知って有頂天《うちようてん》になったのかも知れない」 「いい線だ」  岩瀬が目をとじて言った。 「自分の人生もやっとここまで届いたかという自己満足だよ。中小企業の経営者などで、閣僚級の政治家に個人的なつながりを持つと、まるで人気歌手に声をかけられた女学生のように、一途《いちず》にのぼせあがってしまうケースがよくあるんだ」  下町はそれを聞いて頷いた。 「多分そんなことだろう。それにしても、この場合は宗教というか、教祖さまがからんでいる。多分その教祖さまが、北の土地を買えとか、東の方向に運がひらけているとか言ったんじゃないかな。老人はそれで言われた通りの土地に投資した。すると、さっと買手がついて高い値で売れる。神様のおかげだから充分にお返しをして、また次のおうかがいを立てる」 「判った」  北尾が高い声で言い、手をひとつ叩いた。 「中山徳一郎は土地ころがしに利用されたんですね」 「汚《きた》ねえなあ」  風間が吐《は》きすてるように言った。 「中山さんは不動産屋さんなんでしょう。それじゃ、初めから……」  正子がそう言うと、下町は手をあげて笑った。 「そうときめつけてはいけないよ。最初は本当に偶然《ぐうぜん》のことだったかも知れないさ。でも、自分から利用されにのめり込んで行ったのはたしかだろう」 「そういう信者が十人もいれば、あとでどうこう言われる隙《すき》を作らなくてすむわけだな。大手の会社の名も出ないし、ダミーも作らずにすむ。宗教法人が政治資金の吸いあげ役をやってくれるわけだ」  岩瀬は腕《うで》を組んだ。 「滋行氏の計算だと、去年徳一郎氏がそこへ吸いあげられた金額が約三億円。もしあの地区に同じような信者が十人いるとすると、三十億になる」 「ばかばかしい」  風間がつぶやいた。 「ひょっとすると、滋行氏も誤解しているかも知れないぞ」  下町は愉快そうであった。 「誤解……」  岩瀬が組んだ腕を解いて訊《き》く。 「そうさ、三億円は徳一郎氏の出した欠損ではないのかも知れないじゃないか。創造神霊教団の指示に従ったからこそ出て来た利益であって、本来それは教団に還元されるべきものだ。徳一郎氏はそれ以外に、教団に頼らない商売もして、ちゃんと利益をあげていると考えていいだろう。だからこそ、年に三億もいれあげても、従来通りの生活を維持《いじ》して行けてるんだよ。でなかったら、いくら何でも今頃は不渡りを出しているだろうさ」 「畜生」  岩瀬は口惜しそうに指を鳴らした。 「その手に気付いてればなあ」  元国会議員の秘書としては、口惜しがるのも無理はなかった。 「こいつは全国的にひろがってるかも知れないぞ。何しろ第二位の神様に神農黄帝《しんのうこうてい》を据《す》えているんだ」 「何だって……」  岩瀬が珍しく素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「それは本当か」 「北さん……」  下町は北尾をみつめた。 「ええ。最高神が高皇産霊神《たかみむすびのかみ》で、次が神農黄帝なんです。でも、どうしてその神様がいけないんですか」 「別に神農黄帝が悪いわけじゃない」  岩瀬は弁解するように言った。 「しかし、その神様を上に仰いでいる人たちの一部に、ちょっと問題の多い連中がいるのさ」 「どんな……暴力団じゃないでしょうね」 「断わっておくが、その神様を守り本尊のようにしている人達の大部分は、ちゃんとした人達さ。でも中には暴力団同様の連中もいる。一定の階級を持った組織を作ってね」  北尾が頷いて見せた。 「いいですか」  下町が北尾に向かって言った。 「僕の言ったことがもし正しければ、その教団には自己防衛のための武力が要るということです。儲《もう》け口《ぐち》を教えてやるんですよ。それも何億という額です。教えてもらった者が、もしその儲けを教団に還元してくれなかったらどうなります。泣寝入りですか……。正式な貸借関係は何もないんですよ」 「それはそうですね」 「武力が要るというのはそこのところです。創造神霊教団が最初からそういう意図《いと》をもって活動をしているのなら、どうしても還元を強制させ得る武力を必要としているのです。そして、その武力集団の神を自己の神の次の位に据えるわけです。白沢一馬がそういう武力集団に大きな影響力を持っているのは有名なことですし、この想像は多分外れていないでしょう。もっとも、利益の還元は教祖と信者の間の関係で、できるだけ平穏に行なおうとはするでしょうね」 「インチキ神様の女出入りでも調べあげればすむことだとばかり思っていましたよ」 「あたしも」  正子と北尾は顔を見合せてため息をついていた。     12  下町探偵局の調査方針が変更された。北尾も岩瀬も風間も、千葉県方面を駆けずりまわっていて、正子はもとのデスク・ワークに戻っていた。下町の推理を裏付ける調査結果が続々と現われて来た。決して組織だってはいず、どちらかと言うと散漫で能率的ではないやり方だが、明らかに一定の線上に土地の売買が繰り返され、しかもその関係者はみな多かれ少なかれ創造神霊教団に関係していた。 「これじゃ、信者を増やすのはわけありませんな」  北尾がそんなことを言った。 「すすめられた土地を買うと、必ずいい値で売れるんですからね。少しくらいの病気を治すより、確実に金を稼《かせ》がしてくれる神様のほうが有難いですからねえ」  要するに、創造神霊教は商売繁昌の神様なのである。 「仕掛けに気付いていない連中もいますよ」  風間はそう報告している。 「ご託宣《たくせん》に従ってやっているだけで、本当に神様のご利益だと思っているらしいんです。買った相手が同じ信徒だということを知らないんです」  しかし、中山徳一郎はどっぷりとその泥沼につかっているようであった。県内の信徒では一番の古株で、すでに種も仕掛けも判り切っているらしい。その口を封じるためか、彼の経営する東日総業は、北海道や四国にも手を伸ばし、それなりの収益をあげさせてもらっているようであった。 「儲けてるよ、あの会社は」  岩瀬が下町にそう断言した時、下町はうれしそうに笑った。 「そうだろうと思った。君は気がついていないのか」 「何を」 「市川の中山家はもう富豪《ふごう》と言っていい」 「そう言えるな」 「その富豪のトラブルが、なぜこのみじめったらしい下町探偵局へ持ち込まれたと思うんだ。俺たちがいつも客にしている貧乏人ならとにかく、守るべき富のある連中が、行き当たりばったりに俺《おれ》たちを選ぶもんか」 「と言うと……」 「年に三億という金額を聞いた時から、俺はどうも怪しいと思ってたのさ。これは多分、あのお婆ちゃんが中山家の親戚《しんせき》だったからこそ考え出されたものなんじゃあるまいか」 「判《わか》らない」  岩瀬は首を横に振《ふ》った。 「お婆ちゃんが、うちのとなりに探偵局があるとか何とか、世間ばなしのついでに言ったんだよ。あの連中にすれば、こんな場所に探偵局を構えてるのがいるってことすら、意外だったに違いない。彼らの知っているのは、たいてい白沢一馬につながって行ってしまう調査機関ばかりだからな」 「ばかにされたのか、俺たちは」 「まあそういうところだ。危《あぶな》いところへつながっていないということを、どこかの探偵社に調べさせたかも知れないぜ」 「畜生《ちくしよう》」 「よく考えてみろ。吸いあげられるの還元するのと言っても、ネタは向こうがくれるわけだし、儲けの一部は中山家の手もとに残るはずだ。中山家は損をしてないんだよ。税金でごっそりやられればおしまいだろうが、その辺はちゃんと手が打ってあるはずじゃないか。駄賃なしの使いをやらされてれば、しまいには信仰心も薄れるさ。滋行氏が詳しいデータを俺たちに示さなかったわけさ。あれはきっと父親と同腹か、それに近い状態なんだ」 「同腹……グルだっていうのか」 「危いことから手を引かせたいには違いないかも知れないが、滋行氏も仕掛けは知ってしまっているんだ。誰だって白沢みたいな奴に逆らうのはご免だろう。ところがここに、胡散臭《うさんくさ》い貧乏探偵局がある。調べさせればこの仕掛けに気付くはずじゃないか」 「あ……」  岩瀬は唖然《あぜん》としたようであった。 「俺たちがバラしに動くと見たのか」 「金持が腹の減った奴を見れば、そんな風に思うさ」 「今度はただばたらきはご免だね。相手はいつもの貧乏人じゃない。と言って、俺たちは正義の味方でもない」 「そりゃそうだ」  岩瀬は天井《てんじよう》を向いて笑った。 「そこでこの間からうれしそうな顔をしてたんだな」 「まず早いとこ土地でひと儲けさせてもらおうじゃないか」  下町はじっと岩瀬をみつめた。 「ばかだな、俺は」  岩瀬は右手の拳で自分の頭をこつんと撲って見せた。 「連中の尻馬《しりうま》に乗ることを少しも考えないでいた。不動産を扱う連中で、創造神霊教に関係している連中を洗い出せば、その連中のやっていることで、鉄道や道路や橋の計画がすぐ判るんだ。すっとぼけてそこへ割り込めばいいだけじゃないか」 「一発やったらすぐに逃げるぜ。欲はかかない。そのかわり、マスコミにこの仕掛けを書かせてやる」 「ボーナスをはずんでくれるわけか」 「少しはのんびりしようじゃないか」 「婆さんさまさまだな」  ちょうどその時、階下から聞きなれたとなりの婆さんの下駄《げた》の音が、板張りの階段をガタガタとあがって来た。  二人は顔を見合せて笑った。 「何よ、ばか笑いなんかしちゃって」  婆さんはオフィスへ入るなり言った。 「それより中山の家のこと、少しは進んでるの……」 「進んでますよ」  下町が答えた。 「ええ、大変な進みよう。あとはスポンサーを探《さが》すだけ」  岩瀬がうれしまぎれにきわどいことを言った。 「え、スポンサー……」 「いえ、こっちのことです」  下町があわてて誤魔化《ごまか》した。 「で、どんな具合なの……その神様野郎は」 「いくらお婆ちゃんでも、それは申しあげられませんね」 「あら、いやにきっぱり言うじゃないの。この話を持ち込んだのはあたしなんですからね」 「そうだ」  下町はポンと手を叩いた。 「岩さん、おとなりにはいつもお世話になりっぱなしだね」 「ん……」  岩瀬が目を剥《む》いた。 「恩返しするにはいいチャンスじゃないか」 「印刷屋がスポンサーになるのか」 「悪くないアイデアだろう」 「よし、その線で行こう。俺たちのまわりには、その程度の金持しかいないものな」 「何よ、二人して」  婆さんは下町たちを睨んだ。 「お金|儲《もう》けの話ですよ。おたくの社長さんに会わせてください」 「本気なの……」 「ええ」 「あたしは会長よ。会長じゃだめかしら」 「お婆ちゃんが会長……」 「そう、知らなかったの。息子《むすこ》が社長で嫁《よめ》が専務よ」  下町はうんざりしたような顔で岩瀬を見た。     13  下町誠一がそこに探偵局のオフィスを構えてから、もうかれこれ六年になるが、家主であるとなりの印刷屋の応接間へ入ったのは、はじめてであった。  と言っても、となりの印刷屋の応接間がそれほど格式高い場所だったわけではなく、印刷屋の西尾氏が店子《たなこ》に対して気位が高いわけでもなかった。  要するにこの六年間、とりたててそこへ行く用事が下町のほうになかっただけのことである。  一階が酒屋の倉庫に使われているその仕舞《しもた》屋をオフィスとして借りる時は、間に不動産屋が入っていたから、その不動産屋のオフィスで契約書に捺印《なついん》してすんでしまったし、それ以後の隣家との交渉ごとは、すべてとなりの婆さんを通して行なわれて来たのであった。  西尾やへ。戦前の人だから、やへ、と旧仮名遣いで名を書くその婆さんは、法人の形をとっているとなりの印刷屋の会長さんなのだ。  息子の西尾|征勝《まさかつ》氏が社長で、その奥さんが専務。常務や副社長がどうなっているかは知らないが、両国|界隈《かいわい》ではそんな会社は珍しくもない。  その西尾印刷株式会社の応接間で、下町誠一は社長と向きあっている。勿論《もちろん》すでに顔馴染《かおなじ》みである。大衆酒場のうさぎ屋でよく会うし、会えば必ず釣りに誘ってくれる相手だ。西尾氏は下町方面のへら鮒《ぶな》釣友会の役員をしていて、下駄屋の悠さんなどは陰で「へら釣《ちよう》さん」と呼んでいるほどのマニアだ。休みになると暗い内から、愛車のスバル360を駆ってどこかの川だか沼だかへ出かけてしまう。 「鮒を釣るのが好きなんだか、メメズをいじってるのが好きなんだか……」  ミミズをメメズと言う奥さんが、旦那の釣好きをそんな風に表現している。 「へらはミミズなんか使いませんよ」  いつか下町がそう言ってたしなめたら、 「あら、それじゃあの粉を練った奴は自分のおやつじゃなかったのかしら」  などと驚いて見せたりした。奥さんだってそのくらいのことは知っているのだが、亭主の趣味を高尚なものに持ちあげるような馬鹿な女性は、このあたりでは絶滅してしまっている。恐らく江戸時代からそういう女性は棲息《せいそく》していないのではあるまいか。  いずれにせよ、西尾氏の釣果を現実に見たものは一人もいないらしい。うさぎ屋で悠さんがそのことを言ったら、 「へらは釣るだけです」  西尾氏は憮然《ぶぜん》としてそう言った。実際、へら鮒釣友会は、釣ったあとで放してやることを会則としているようだ。  だから応接間には、魚拓《ぎよたく》などは見当たらず、そのかわり優勝カップと釣竿がずらりと並べたててある。  貴殿は第四十一回大会において優秀なる成績をおさめ、とか、第一位西尾征勝殿、とか書いた賞状も、額に納まって壁面を飾っていた。 「この僕に土地を買えですと……」  西尾氏はインスタントのコーヒーをいれたカップをテーブルの上へ置いて目を剥いた。 「ええ」  下町は煙草《たばこ》を出して咥《くわ》えながら頷いた。 「先だってのお婆ちゃんの調査依頼が、そんな方向に発展してしまったんですよ」  下町はそう言い、 「それにしても、これは変ったライターですね」  と、卓上ライターを取りあげた。全体は楕円形《だえんけい》で、その中央が白くなっている。そしてその白の中に、黒い円があるのだ。 「その横のとこを押すのよ」  婆さんが教えてくれた。着物に下駄ばき。襟首《えりくび》に白いハンカチをかけている。相変らずのスタイルだ。 「ここですか」  下町が言われた所を押すと、中央の黒い円の中心部がパッと開いて、そこから炎が出た。 「なるほど」  下町は煙草に火をつけた。 「ね、判る……」  婆さんがうれしそうに言った。 「目から火が出るって奴よ。税務署なんかが置いてくれればいいのにね」  たしかにその卓上ライターは、目玉を模《も》していて、瞳孔《どうこう》から火が出るのだ。 「僕のいとこが作ってるんです」  西尾社長が言った。 「ほう、変ったものをお作りになるんですね」 「アイデアだおればかりで、さっぱり商売にならないんです」  西尾氏は笑った。 「今は安眠ベッドなんて奴《やつ》を作ってるようです」 「安眠ベッド、ですか」 「ええ。電車の中の温度や震動を研究しましてね。通勤電車と同じような状態を作り出すんだそうです」 「そりゃ気分よさそうですな」  下町が言うと西尾氏が笑い出した。 「お世辞《せじ》を言われても……」 「いや、お世辞じゃありませんよ」 「少しはものになりましょうかね」  西尾氏は今度は真面目腐《まじめくさ》って言った。そうなると下町も確答はしにくく、 「さあ……」  と首を傾《かし》げてしまう。 「ほらごらんなさい」  真面目腐った表情は冗談《じようだん》のうちだったらしく、西尾氏は婆さんと顔を見合せて笑いこけた。 「これで、うちの親戚にも結構風変りなのがいるのよ」 婆さんは少し得意げに言った。 「ところでその土地の話ですがね」  下町は本題へ話を持って行った。 「うかがいましょう」  西尾氏も坐り直した。 「おたくのご親戚の中山さんは大変なことに巻き込まれていますよ」  西尾氏もすでに中山徳一郎の神様狂いのことは充分知っていると見え、眉《まゆ》を寄せて頷いた。  シャーッ・パタン、シャーッ・パタンと、階下から印刷機の音が聞こえていた。     14 「中山さんは、創造神霊教団という新興宗教に深入りしているんです」  下町は慎重な口ぶりで、西尾氏に説明しはじめた。 「そうだそうですね」 「その教団のことをご存知ですか」  下町が言うと西尾氏は即座に首を横に振った。 「いいえ」  そばから婆さんが口を出す。 「だからあんたがたに頼んだのよ」  下町はそういう婆さんを、ちょっと厳しい目つきで眺めた。 「そうです」  婆さんは気おされたらしく、目をしばたたいて口をつぐんだ。 「白沢一馬がからんでいます」  下町はそう言って、じっと西尾氏の顔をみつめた。 「白沢一馬……」  西尾氏はちょっと目を天井に向けて考えたようだったが、 「ほう、そうなんですか」  と下町に視線を戻して微笑を泛べた。 「我々のようなしがない庶民にとっては雲の上の人ですな」  西尾氏の表情には、どこか要領を得ないようなところがあった。目から火の出る卓上ライターに手を伸ばし、火をつけたり消したりしている。 「中山の爺さんも大したもんだ。そんなえらい人と付合いを持つなんてね」  下町にとも婆さんにともつかぬ様子で言った。 「利用されているのですよ」  下町は西尾氏の反応の鈍さを見て、態度を変えたようだった。じっくりと教えてやることにきめたらしい。 「そりゃ利用されているでしょうね。大金を捲《ま》きあげられているんですから」 「それが、どうも違うらしいのです」 「ほう、違うんですか」 「金儲けの道具に使われていることはたしかですが、ただ捲きあげられっぱなしではありません。ちゃんと中山さんも儲けさせてもらっているのです」 「そいつは羨《うらや》ましいな。うちの商売などは馬鹿馬鹿しいくらい儲からないんですからね。白沢一馬と言えばあなた、政財界の黒幕じゃありませんか。そんな人の役に立っていれば、おこぼれにしたって、ちっとやそっとではないでしょう」  口では羨ましいと言うが、西尾氏はまるで欲っ気のない表情をしていた。白沢一馬は本当に雲の上の人で、自分などがかかわり合える相手ではないときめ込んでしまっているのである。 「そう。ちっとやそっとのおこぼれではないでしょうね。現に中山さんは、その新興宗教に大金を捲きあげられたと言いながら、別に不渡りを出すでもなく、家屋敷を抵当に入れるわけでもないじゃありませんか。その反対に、どんどん事業を大きくしていらっしゃる」 「へえ、そうなんですか」  西尾氏の顔に、やっと本当に羨む表情が現われた。 「じゃあ、なぜあなたがたに調査なんか頼んだんでしょう」 「ご子息の滋行さんが、白沢のような危険な人物と手を切らせようと考えてなさったことでしょうね」 「儲かっているのに……」 「儲かっていても白沢が相手じゃ、いつそれを根こそぎ取りあげられるか判ったものじゃありません」 「そうかも知れませんな。右翼とか暴力団とかいった連中のボスだそうですからね」 「ねえ西尾さん」  下町は上体を前に傾けて言った。 「中山滋行さんは立場上、詳しいことをおっしゃいませんでしたが、わたしどものほうでいろいろと調べて行くうちに、あの方の真意がはっきりして来たのです」 「ほう。どういうように……」 「お父さんの徳一郎氏は、白沢たちと手を切るにはもう深入りしすぎているようです。だから、その関係をたつには別の方法が必要なのです。多分徳一郎氏は創造神霊教団の正体やその仕組みを、もうご存知なのに違いありません」 「どうすれば手を切れるのです」 「あの教団のやっていることを、徳一郎氏ではなくて、世間全体に暴露するのです。マスコミを使ってね」 「大きな話になりますね」  西尾氏は半信半疑のようであった。それと同時に、やっと創造神霊教団の正体について関心を示しはじめた。 「そんな悪いことをやっているんですか。その新興宗教は」 「悪いこと……かどうかはっきりと言えません。と言うのは、政治家たちがやっているいつものことの一部だからです」 「なるほど。それで金儲けか。しかし、宗教団体がなぜ……」 「白沢一馬というのは、大きな利権が動くとき必ず姿をちらつかせるその方面のプロです」 「ええ、それは知っています」 「たとえば、千葉県内に新しい道路の計画が」  西尾氏はみなまで言わせなかった。 「あ……やっぱりそういうのがあるんですか。いや、僕もあるんじゃないかと疑っていたんですよ。新国際空港へ行く道が一本というのはおかしい。南からも北からも、そういう道はきっと必要なわけですからね」  下町は手を振ってそれをさえぎった。 「たとえば、の話ですよ」  しかし西尾氏は聞き入れなかった。 「それはありそうなことだ。そうですか、中山の家はそういう情報をもらって稼いでいたのか」  下町は西尾氏の興奮が鎮まるのを待って、しばらく黙っていた。 「で、あなたがたは調査している内に、そのルートを掴《つか》んだというわけですね」  下町は苦笑して答えなかった。 「土地を買えとおっしゃったのは、そのことなんですか。それなら濡《ぬ》れ手《て》で粟《あわ》ですよ。情報さえたしかなら、ガッポリ稼げる。そういううまい話に、一度は乗りたいもんだと思っていたんです。何しろこっちは、きちんきちんと税金をとりあげられているんですからな、時効になるまで脱税を放っておかれるような連中にばかり儲けさせるのは、癪《しやく》で仕方がなかったんです」  西尾氏は俄然《がぜん》勢いづいた。     15  下町の説明を聞いて、西尾氏はますます興奮した。 「畜生《ちきしよう》、うまいことを考えつきやがる。教祖様が神がかりで信者に儲かる土地を教えるんじゃなくて、政財界の黒幕の白沢一馬が、政府要人から訊《き》きだした新道路計画をそれとなく教えてしまうんじゃないか。そうと知っていたら俺だってその神様を信じるね。値上りの儲けを半分|献納《けんのう》したってたっぷりおつりがくる」  下町はその興奮ぶりを見ながら頷いていた。このへんの人間なら誰だって興奮するに違いなかった。ハンコをひとつついただけで、何十億という大金がころがり込んでくるようなうまい話がこの世の中に実際にあるということは、大人なら誰でも知っている。政治とは実際のところそういううまい話を陰でこそこそ取り扱うことを言うのだし、官庁とはそういう儲け話がしまってある場所のことなのだし、警察とはそういうことを見て見ぬふりをする組織のことなのだし、税務署とはそういう儲けには税金をかけない役所のことなのだし、新聞社とはそういうことを一般に発表しない機関のことなのだし、そして選挙とはただ儲けする人を国民が投票で決めることなのだし、野党とはそういう立場になりたくてもなれない連中のことなのだし……だからこそ野党は貧乏人の味方で、しかも貧乏人の頼りにならない集団を意味するのではないか。  西尾氏は明らかに白沢一馬たちの企みを憎んではいないようであった。むしろ、その一味に自分の親戚の一家が接近し得たことに驚き、とても手のとどかないものとしてあきらめていたことが、意外に近くまで降りてきたことを知って興奮しているのだ。  下町はそんな西尾氏をせめる気にはとうていなれはしなかった。むしろ西尾氏の素直な反応に、感動のようなものさえ味わっていた。  これが庶民の本当の姿なのだ。長いものにはまかれろという言葉があるが、その長いものが、悪にせよ非道にせよ、現在よりはいま少しましなものをあたえてくれるということを、貧乏人は本能的に感じとっているのだ。  もし仮りに西尾氏がもっと若かったら、独身だったら、いや少なくとも夫婦二人っきりくらいの所帯の主であったなら、今のようなことを聞けばこの国の腐敗《ふはい》ぶりに腹をたて、根こそぎぶちこわして新しい社会を作るべきだと決意を新たにしたところかもしれない。  でも、奥さんがいて、子供たちがいて、お婆ちゃんがいて、従業員たちがいる。しかもその従業員たちは西尾氏にとって家族同様身近な連中なのだ。  シャーッ・パタン、シャーッ・パタン。  下町は印刷機の音を聞きながら朝晩顔を合わせる印刷工たちの顔を思い泛《うか》べていた。おそらく西尾氏なら、その一人一人の奥さんや子供たちの名前までそらんじているに違いない。本社と工場が百キロ以上も離れているような大会社ではないのだ。経営者の一家が昼のおかずに何を食べているか匂いで判ってしまうような愛すべき零細企業なのだ。そこは、大家《おおや》といえば親も同然、店子《たなこ》といえば子も同然、といったような昔なつかしくもあり、もの哀《がな》しくもあり、そして使う側にも使われる側にも、ついかけがえのない場所と思わせてしまうような、あたたかい血の通った地点なのである。  企業や職場というより人間の寄り集まった場所といったほうがぴったりくる、そういう場所にたいして責任を負った西尾氏にしてみれば、もはや根こそぎたたきつぶして……というような性急な改革論など、安もののカレンダーに書いてある「一日一善」というような標語同様、浮世ばなれのしたただのスローガンになってしまっているのだろう。  みんな苦しい毎日を送っているのだ。背負いたくもない荷物を背負い、行きたくもない方角へ、責任、というただその一事で、歯をくいしばって歩き続けているのだ。  何かにすがれたら気が楽だろう。インチキな神様だろうが何だろうが、何もかも相手に下駄《げた》をあずけて、ひたすらその神様の言う通りにしていてそれで済むならば、今度のようなことを聞いたって、ああまたやっているなで済んだ筈である。  だから下町は、西尾氏の反応を欲だとは思わなかった。不純であるとも思えなかった。  結果として、話はとんとん拍子に進みはじめたようであった。 「それで結局、創造神霊教団の連中が買《か》い漁《あさ》っている地区は、どういう方向性を持っているんですか」  西尾氏は千葉県の地図を持ち出して来て下町に尋《たず》ねた。 「たしかに、千葉県にもそういうことが起っています」  下町はもう否定はしなかった。 「でも、西尾さんに力を貸していただくなら、千葉県ではいけません」 「なぜです。他の府県にも同じようなことが起っているのですか」 「ええ。材料に不自由はありません。まず反対する第一の理由は、千葉県内ですとわれわれの行動が中山家にすぐ結びついてしまいます。第二に千葉ではもう地価があがりすぎています。失礼ですがいくら西尾さんでも千葉県内ではそう大きな土地に対する手当てはしかねるでしょう」  西尾氏はその一語でやっと冷静に戻ったようであった。 「もちろんわたしが準備できる資金なんてたかが知れていますよ」 「もっと東京から離れた安全な場所でやらないといけませんね。安全な場所という意味は、白沢たちに中山家とわれわれのつながりを感づかれないようにということです」 「慎重にやらないといけませんな」  西尾氏はいつのまにか下町の持ち出した話にのりきっていた。 「で、幾らくらい用意したらいいものでしょうか」  西尾氏がそう言ったとき婆さんがかん高い声をあげた。 「征勝《まさかつ》、いけません」  西尾氏はびくっとして首をすくめた。 「そんなことに手を出しちゃ駄目《だめ》です」  西尾氏は妙に子供っぽいしぐさで婆さんを見つめた。 「なんでよぉ」  母親に遊びを止められた子供のような態度だった。いやたしかに婆さんは西尾氏の母親である。 「会長が反対します」  婆さんは威厳を持ってそう言った。     16 「あれ……」  となりの印刷屋から下町がオフィスへ戻って来ると、岩瀬が驚いたように言った。 「駄目《だめ》だったのか」  下町の態度には、はっきりと落胆《らくたん》の色が滲《にじ》み出《で》ていたのだ。 「やれやれ、だよ」  下町はそう言って疲れたように自分の椅子に坐った。 「どうしてです。悪いお話じゃなかったはずなのに」  茂木正子が言った。 「社長は飛びついて来たさ」 「当たり前だ」  岩瀬が常になく強い口調で言う。 「誰だって金は欲しい。こんなチャンスは二度とないと言っていい。ここら辺りの小さな印刷屋の社長としてはね」 「どうして駄目になっちゃったんですか」  正子はくやしそうだ。 「あのお婆ちゃんさ」  下町はそう答えてゆっくりと首を左右に振った。そのゆっくりさ加減が、並々でない反対にあったことを示していた。 「何だと言うんです」  岩瀬は立ちあがると自分の席を離れ、いつもあの婆さんが来たときに坐る、下町の前の折り畳み式の椅子へ移った。 「社長を叱《しか》りつけたよ。会長だからな」  下町は苦笑を泛《うか》べて岩瀬を見た。 「そんなことに手を出したら、あたしが承知しないってね」 「どうしてだろう」  岩瀬は口をとがらす。 「白沢一馬が右翼だの暴力団だののボス的存在だというところに引っかかったのだろうな」 「ちぇっ」  岩瀬は舌打ちをした。 「女だなあ。こっちはそういう心配のないように手を尽す気でいるのに」 「とにかく、これでスポンサー候補がひとつ消えたわけだ」 「がっかりねえ」  正子は本当に落胆したらしく、ちょっとふてくされたように机の上をみつめていた。 「ま、いいさ。金主は西尾印刷だけじゃない」 「心当たりがあるのか」  下町は岩瀬に訊《き》いた。 「いや、まだだ」  岩瀬はまた舌打ちをした。 「話にすぐ乗って来そうな所はいくつかあるけれど、俺の知ってる連中が動いたら、すぐ白沢一派に感付かれてしまう。白沢につながりのある連中ばかりだからな」 「依頼者の中山家に害のあるようなことは絶対できないぞ」  下町は念を押すように言った。  岩瀬も正子も不機嫌な顔で黙り込んでしまった。くやしいのだ。みすみす大金を稼《かせ》ぐチャンスを前にしながら、肝心《かんじん》の元手に事欠いている。自分にその資金がないのは仕方ないとしても、周囲にまでそういう金を出せる人間がいないことが、くやしくて仕方ないのだ。 「貧乏人はどこまで行っても貧乏人か」  岩瀬はのそのそと自分の席へ戻ってから、そんなことをつぶやいていた。  風間と北尾がにぎやかに帰って来たのはそんな時であった。 「俺もやっとあの汚いアパートを脱出できるな」  風間の若々しい声が、ガタガタという足音と一緒《いつしよ》に二階へあがって来る。 「風間君としては珍しく楽天的だね」 「そんなことはないさ。今度ばかりは連中のはなをあかしてやるんだ」 「体制側のかね」 「そうですよ。これはただの金儲《かねもう》けじゃない。庶民のささやかな抵抗って奴ですよ」  二人の姿がオフィスへ現われた。 「只今ぁ」  風間は元気よく言うと下町の前へ行った。 「所長、準備完了です」  下町探偵局は総がかりで東京周辺の創造神霊教団の動きを追い、幾つもの土地売買の動線を捕捉していた。帰って来た二人は、その中から最も安全と思える地区を選び出して、教団の手がまだそこには伸びていないことを確認しに行っていたのであった。 「まったく動きなしです。付近一帯はおおむね山林で、所有者たちの中には離農したがっている者が何人もいます」  風間が言うと、北尾も自分の席からつけ加えた。 「難点は市街地と違って、計画が変更されれば転売しにくくなる点だけです。しかし、所長がおっしゃっていた通り、多分あの新線ルートは変更されないでしょうね。連中がすでに手をつけている区間のまん中あたりでして、あれをねじ曲げたらおかしなことになってしまいます。現地で見たところ、障害になるものは何もないのですからね」 「ご苦労でした」  下町は苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような顔で言った。 「岩さん」  風間は怪訝《けげん》な表情で岩瀬を見た。 「何かあったんですか」  すると岩瀬は放り出すように言った。 「空まわりさ」 「空まわり……」 「そう、俺たちは金には縁がないんだよ」 「まさか」  正子が岩瀬にかわって答える。 「駄目なのよ。お金の出る所がないの」 「だっておとなりの……」  風間はそう言っていったん口をつぐむと、急に激しい声になった。 「増えると判り切っていても金を出さないんですか」  下町は目をそらし、黙って首を横に振った。 「なぜなんです」  風間は喚《わめ》いた。彼らは白沢一馬が信者を使って買《か》い漁《あさ》っている土地へ、ほんのひと握りほど、自分たちのものを紛《まぎ》れ込《こ》ませようとしていたのだ。下町探偵局として捻出《ねんしゆつ》できるささやかな額の上に、西尾氏の金を加えて、ほんの少し利益を求めたに過ぎない。だが西尾氏は婆さんの反対で手を引いてしまうらしい。儲けるのは白沢一馬や、情報を与えた大物たちで、風間や正子たちは相変らず見物人でしかないことになる。 「俺たちの金だけでも、百か二百平方米くらいなら買えるさ」  岩瀬は自嘲《じちよう》するように言った。     17  全員が顔を揃《そろ》えているオフィスへ、となりの印刷屋の社長がこっそりやって来たのは、もう夕方であった。 「さっきはどうも」  西尾氏は下町に頭を掻《か》いて見せた。 「いえ、こちらこそ」  下町はそう答え、正子が椅子を出した。 「お婆ちゃんにやられてしまって」  西尾氏が言うのを、下町は微笑を泛《うか》べただけで受けた。 「でも僕はあきらめたわけじゃありませんよ」  西尾氏は早口で言った。 「そう来なくては」  岩瀬がうれしそうに言う。 「情ない話ですが、西尾さんが出てくれなければこれはまとまらないんです。何しろ素寒貧《すつかんぴん》ぞろいでしてね。せめて百|坪《つぼ》、二百坪とまとまった土地でなければ……。でないと、確実に彼らが必要としている土地に引っかけられるという保証はないんですからね」 「判ってます」  西尾氏は頷《うなず》いた。 「いくらその連中が図々しくても、将来の建設計画に必要な幅の土地だけを、細長くつなげて買い占めることは不可能でしょう。僕らが買った土地がその必要な部分に引っかかっていれば、はみ出した分も含めて買わざるを得ないでしょうからね。僕の出せる金はたかが知れてますし、その連中にして見れば、一番買い易い形の土地ということになるでしょうね」 「やはり乗っていただけるんですか」  下町が念を押すように言った。 「乗りますとも」  西尾氏は力強く言った。 「こんなチャンスはほかにありませんよ。僕などに言わせれば、白沢みたいな男が動いているということは、政府が動いているということとおなじです。いつもビクビクしているんですよ、うちみたいな零細業者は。いくら堅実にやっていたって、不渡りの一発もくらったらそれでおしまいです。でも、今度の件がうまく行ったら……うまく行くにきまっていますがね。うまく行ったら、その一発ぐらいはしのげるだけの余力ができるわけです。会社を潰《つぶ》さずにすむし、長年働いてくれている連中にジタバタさせなくてもすむんです」 「そりゃいい心がけだこと」  いつものようには下駄の音を立てなかったから、誰もとなりの婆さんがあがって来たのに気付けなかった。  婆さんは入口に立って、手に持った下駄を床に置いて足をのせながらまた言う。 「こんなことだろうと思って用心してたのよ」 「お婆ちゃん」  正子が泣きべそをかいて言った。 「なんで反対なんかなさるの」 「さ、みんなの言い分を聞きますよ」  婆さんは入口の壁によりかかって全員を見渡した。 「悪いことをしようとしているんじゃありませんわ。こういうことは今までだってこれからだって」 「いつだって行なわれることだと言いたいのね、正子さんは」 「そうよ。お婆ちゃんは、国の政治にからんだ一部の人だけがお金儲けをするのを、指をくわえて見ていろとおっしゃるの。あたし、そんなにお金持になりたいわけじゃない。病気のおじいちゃんを、もう少しなんとかしてあげたいだけ。二人きりの暮らしで、あたしが出勤してしまえばおじいちゃんは一人で寝てるだけなのよ。せめてテレビをカラーにしてやって……そのくらいのことなのに」 「へえ、お涙頂戴の物語ね」  婆さんはからかうように言った。 「何もそんな言い方をしなくたっていいじゃないか」  西尾氏がたしなめた。 「まだほかにあるでしょう」  婆さんは北尾を睨《にら》んだ。 「わたしも、一度くらい家内の笑顔を見たいと思ってます」  北尾は白状させられたように言った。 「岩さんは……」 「俺一人ならもっとうまい手を知ってるさ」  岩瀬は吐《は》きすてるように言う。 「どこかへ行ってひとこと喋《しやべ》るだけで、この話は金になる。金主を探すこともないさ」 「でしょうね。以前は政治家さんの秘書をやっていたんだから」 「今度だけは放っといてくれないか」  西尾氏は母親のほうに体を向け直して宣言するように言った。 「遊びに使うとか、贅沢《ぜいたく》をしようとか言うんじゃない。このチャンスを利用すれば、うちはもう少し安定した経営状態になれるんだ」 「みんな結構だこと」  婆さんは冷たい表情になっていた。 「あたしがなぜ反対してるか、ちっとも判ってないのね」 「教えてください」  下町が言った。 「それによってはいさぎよくあきらめますよ」 「教えてあげる」  婆さんは壁から離れ、下町のほうへ近寄って行った。 「あたしはあんたがたよりずっと先輩《せんぱい》よ」  下町と西尾氏が向き合っているデスクの横へまわって、そこで立ちどまった。窓のほうに向かって全員を見渡せる位置だった。 「何の先輩だか判らないでしょう」  誰も答えず、ただ婆さんをみつめていた。 「貧乏のよ」  婆さんはニコリとして見せた。 「貧乏の先輩よ。大先輩だわ。あたしはね、何もみんなにお説教をしようと言うんじゃない。ただ、同じ貧乏人の先輩として、ひとこと言いたいだけ。正直の頭《こうべ》に神宿《かみやど》る、なんてことは信じてもいないわよ。こういう町場《まちば》で生きてれば、正直ってことにも、幾通りもの意味があることくらい自然に判って来るわ。自分が自分に正直であろうとすることと、他人が正直にしろと自分に言うこととの間には、月とすっぽんほどの違いがあるのよ。ためしに、百円玉を拾って交番へ届けてごらんなさい。交番にいるのは若いお巡《まわ》りさんよ。今の若いお巡りさんが、そういうときどんな顔をするか」  婆さんは軽く笑った。 「あたしがそれを本当にやったのは、もう十年も前のこと。そしたらその時のお巡りさんがあたしにこう言ったわ。お婆ちゃんにあげるよ、ですってさ。あたしはその頃からもうお婆ちゃんだったの。そして、このお婆ちゃんは、それ以来お金を拾ったって交番なんかへ届《とど》けてやしないわ。もっとも、拾うのは十円玉か五円玉か一円玉でしかないけれど、百万円だって一円玉だって、届けないことにかわりはないわね。でも、あたしは貧乏人よ。貧乏人であることに誇りを持ってるの。ひょっとするとあんたがたは、今度のことで西尾印刷ぐらいしかスポンサーが自分たちのまわりにいないことを、悲しく思っているんでしょう」  下町がかすかに頷いて見せた。 「その西尾印刷だって貧乏人よ。何しろあたしが会長なんだから。貧乏人は貧乏人にしか寄りかかれないの。貧乏人だから寄りかかられたら倒れちゃう。つまり、辛《つら》くても何でも寄りかかってはいられないわけよ。あたしが誇りにしてるのはそのことなの。あんたがたが、白沢なんて奴の動き方からではなく、自分たちの頭だけで、この辺に道ができるはずだから投資しといてやろうか、と考えたのならとめやしない。貧乏人が要領よく立ちまわろうとするのは、当たり前のことだものね。でも、今度のように白沢なんかにツケを廻してやろうとするのは黙って見てられないわ。それは貧乏人のすることじゃない。悪人のすることよ。勤め先のお金を誤魔化《ごまか》すのは貧乏なうちの子の不心得ですむけど、大きな会社の得になるようなことをしてやって、その会社のツケで遊んでまわるのは、貧乏人として最低よ。自分で立っていないことになるからね。汗も罰《ばつ》も自分で引受けなくちゃいけないの。判ってくれる……あたしが悪いことをしてはいけない、なんてお説教をしてるんじゃないことは。職人はね、昔っから怪我と弁当は自分持ちなの。ところが、今度のことと来たら、損をする危険なんてどこにもないじゃないの。あたしはそれが気に入らないのよ」  婆さんの言うことは、判りにくかった。     18 「判るなあ」  うさぎ屋で、悠さんがしきりに感心していた。その横に下町と西尾氏が並んでコップ酒をやっている。 「それはつまり、こういうことですよ」  悠さんは焼鳥の串《くし》の端をつまんで、宙に図を書くように動かしながら喋った。 「たとえば税金ですね」 「税金……」 「ええそうです。お婆ちゃんは、西尾さんが税金を少しくらい誤魔化したって文句を言わないはずですよ。貧乏人なら当り前だと言ってね」 「帳簿なんか見ても判らないさ」  西尾氏は憮然《ぶぜん》としていた。 「税金を誤魔化してそいつがバレれば、追徴金を取られます」 「うん、そうだね」  下町は妙にさっぱりした表情だった。 「誤魔化した責任は自分が負うわけだ」 「そうです。所長はやっぱり判りが早い」 「俺は駄目か」  西尾氏が拗《す》ねたようにつぶやいた。 「自分のおふくろが言ってることなのに、さっぱり意味が判らない」 「お婆ちゃんの言い方がややこしいせいでしょう」  悠さんは陽気に言った。 「でもね、西尾さんがもし、役所とか政府とかのえらい人とつながってですね、そのコネというか圧力というか、そういうもので税金のお目こぼしを願ったとしたら、あのお婆ちゃんは猛烈に怒るでしょう。それは普通の人間にはできないことだからです」 「つまり、貧乏人じゃないということだな」  下町が言う。 「そうそう。よく判るんですよ、お婆ちゃんの気持がね。うれしくなっちゃうな。あれはいいお婆ちゃんだ。貧乏に筋金が入ってる」 「変な褒《ほ》め方をするなよ」  西尾氏は苦笑した。 「たとえを変えましょうか」  悠さんは串を振って前に書いた図を消すような仕草をした。 「貧乏人だから泥棒がその中から出ても仕方がないと言うんですよ」 「うん」  今度は西尾氏にも判りそうであった。 「でも、警察とグルになった泥棒をしてはいけない」 「そんな……」  西尾氏は呆《あき》れたように悠さんの顔を見た。長い木のカウンターにずらりと客が並んでいて、店の中には焼鳥の煙がたちこめていた。 「そういうケースがないとは言えないでしょう」  下町が言ったので、西尾氏は少し納得《なつとく》したようだった。 「政治がらみというわけか」 「そう。アメリカにありましたね。なんとかゲート事件というのが」  悠さんはコップの酒をぐいと飲んだ。 「お婆ちゃんはきっとそれを言ってるんですよ。その新興宗教の件に関しては、どんなにリスクがなかろうと、いやリスクがないからこそ、手を出してはいけないんだ、って、そう言ってるんですよ」 「悠さんもそう思うんだね」  下町が尋《たず》ねた。 「ええ。お婆ちゃんの意見に全面的に賛成です。だって、それでいくらか儲けたあとのことを考えてごらんなさいよ。一時はその金でひと息ついたって、所詮《しよせん》貧乏人だもの、またやりたくなるにきまってる。お婆ちゃんはね、所長たちが好きでたまらないんですよ。死ぬまで貧乏仲間でいようと言っているんじゃないですか。それを判ってあげなければ」 「この次は、こっちから調査費を出して、リスクのない政治がらみの金儲けを探してもらうことになるわけか」  西尾氏が考え考え言った。 「たしかにそうかも知れないな。金儲けじゃなくてもいい。たとえば融資問題にしたって、相手の個人的な弱点を掴んでいれば、話はずっとし易くなるものな」 「そういうことに使われている探偵社もたくさんありますよ」 「へえ、そうなの」  悠さんは驚いて下町を見た。 「探偵社って言うのは、一種の兇器《きようき》みたいなことにもなるんですね」 「なるさ」  下町は苦い表情で頷《うなず》いた。以前、公害企業の経営者の自宅へ、その公害の被害者の娘を住込ませたことがあるのだ。それはまさに、探偵社が兇器と変った瞬間だった。被害者の娘がなぜその家へ住込みたがったかは判り切ったことなのである。 「おやめなさいよ」  悠さんは同情するように言った。 「そんなのにかかわり合ったって、しあわせになれるわけじゃない。一時しのぎでしかないんですよ」 「そうかも知れんな」  西尾氏は考え深げに頷いた。 「僕らには僕らの生き方がある。コツコツ地道にやるしかないんだろうね」 「そう、その意気」 「頑張れ、貧乏人」  すると、向かい合ったカウンターにいた男が、悠さんにコップを差しあげて見せた。 「よう、有難う」  二人は乾杯《かんぱい》した。 「おい、お酒おかわり」  悠さんが店の青年に言う。 「さあ、所長も西尾さんも、飲んだり飲んだり」  悠さんに煽《あお》られて、二人はなんとなくコップを持ちあげた。 「ねえ所長、尻馬《しりうま》に乗ってつまらないことをするより、もっと派手《はで》なことをやってくださいよ」 「派手なこと、って……」 「バラしちゃってよ。だってくやしいじゃないの。大物連中がまたガッポ、ガッポやってるんだもの。週刊誌でもテレビでもかまわないからさ、徹底的にいためつけてやろうじゃないですか」  すると西尾氏が、迷いを捨てたようにさっぱりした表情で、下町にコップを押しつけて来た。 「そうだ。やってくださいね。たのしみにしてますよ」 「よし来た」  下町はカチンと西尾氏のコップに自分のコップを当てた。     19 「俺、考えちゃった」  風間が北尾に言っている。浅草《あさくさ》の雷門《かみなりもん》から仲見世《なかみせ》へ入るところだった。  婆さんと下町を先頭に、正子と岩瀬、風間と北尾の順に、二人ずつ並んで観音さまのほうへ歩いて行く。 「あんなことで体制側に一矢《いつし》むくいるなんて考えたんだから、やっぱりどうかしてたんだ。金に目がくらんだんですかね」 「かも知れないね」  北尾は穏やかに笑った。 「お互いさまさ、それは」 「あんなことをして、もし将来革命でも起ったら、俺は落伍者《らくごしや》にならなければいけないところだった」 「風間君はやっぱり革命を望んでいるんだね」 「夢みたいなことだけど、いずれはそういう時が来るはずだと思ってます」  岩瀬は正子と喋っている。 「おじいさんは神さまを信じてるんだろう」 「仏さまよ」 「何宗だい」 「さあ。でもお経をとなえてるわ」 「寝たきりじゃ、何かにすがらないわけには行かないだろうな」 「でも、信仰って悪いことじゃないと思うわ」 「うん、そうだよ。悪いことじゃない。何かを信じて生きている人はたくさんいる。たとえそれが神や仏でなくてもな。お婆ちゃんだってそうだ」 「あら、何を信じてるのかしら」 「貧乏さ」 「貧乏を信じてるの……」 「つまり、自分の生き方をさ。立派《りつぱ》なもんじゃないか」 「そうね」 「俺たちの子供時分は、みんな神様を信じさせられていた。天皇は神様で、兵隊も死ねば神社に祀《まつ》られた」 「そのくせ故郷にはお墓があって、三回|忌《き》だとか七回忌だとか、お寺のお坊さんに供養《くよう》されるんだから、日本っておかしな国ね」 「それでいいのかも知れない。何かで読んだんだけど、今の皇太子のお妃《きさき》さんだって、子供の頃洗礼を受けたカソリック信徒だったって言うじゃないか」 「皇室は神道《しんとう》でしょう」 「日本はいいよ。何だかだと言っても、信仰の自由があるしな」 「本当にそんないい国なのかしら」  正子は信じ難いというような顔で笑った。  先頭の二人は食べ物の話をしている。 「天ぷらがいいわよ」 「天ぷらですか」 「あら、所長は嫌《きら》いなの」 「天ぷらは嫌いじゃないけど、お婆ちゃんが連れてってくれる店の見当がつくから」 「あら、あそこの天ぷらじゃ不足……」 「ころもが厚くてね」 「贅沢言わないでよ。あたしの奢《おご》りなんですからね」  ひと儲けしそこなった埋め合わせに、婆さんが浅草で下町探偵局の連中にご馳走《ちそう》しようというのであった。 「まあいいでしょう。ころもの厚い天ぷらもオツなもんです。つゆをたっぷりつけて」 「そう。上品な天ぷらなんて、何だか栄養不良みたいな感じで嫌いよ。何と言ったって、あたしなんかは浅草の天ぷらが一番なの」  六人はぞろぞろと観音様のお堂に近寄って行く。まず線香の煙を両手に当てて、無病息災《むびようそくさい》を祈りながらそれで額や胸や腹のあたりを撫で、それから階段をあがって賽銭箱《さいせんばこ》の前に横一列に並んだ。  思い思いに小銭を投げる。  パンパンと柏手《かしわで》の音。なぜか、風間までが生真面目《きまじめ》に目をとじて合掌《がつしよう》していた。 「家内安全、商売繁昌……」  下町の耳に、印刷屋の婆さんが口の中でそう祈っている声が聞こえた。 「さあ、行きましょう」  祈りをおえると、婆さんははればれとした顔で言った。 「天ぷらをどっさりたべて、またせっせと稼《かせ》いでちょうだいね」  誰もその言葉に答えなかった。当たり前すぎたからであろう。明るい陽ざしの中で、鳩《はと》の群れがパッと空へ翔《と》びたって行った。 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『下町探偵局PART㈵』昭和59年5月25日初版発行                 平成1年4月10日8版発行